看護師にもいろいろあるんです
金野史絵(きんの・ふみえ)さんは大船渡高等学校2年生(文系クラス)。自宅は大規模半壊。「ちょうど1年くらい前にリフォームも終わり住んでいます」。金野さんはサッカー部のマネジャーをしている。12月7日の金曜日夕方、久方ぶりの大きな揺れが襲い、大船渡にも津波警報が発令されたとき、金野さんは部活の最中だった。「なかなか揺れもおさまらず怖かったです。あの日の事を思い出してしまい、家族の安否が凄く気になりました。学校の一室に学年ごとに集められ、家族が来るまで帰らせてくれませんでした」。
「将来、何屋になりたいか」と訊いたとき、金野さんは、就きたい仕事への思いが震災の体験によって「さらに強くなった」と話してくれた。
「ガッツリ看護師になりたいです(笑)。小学校の頃から変わらずなんで」
看護婦(男性は看護士)の名称が看護師に変わったのは2002(平成14)年3月。まさに金野さんが小学生のときだ。看護婦が看護師になったのは、金野さんとして良いことなんですか。
「はい。看護婦より、文字的に引き締まったかんじ。看護“師”の方が格好いい(笑)。うちは弟、体が弱くて、毎週毎週病院行ってたんです。だから看護師がすごい身近で、わたしも友だち感覚で話してたんです。お母さんやお父さんの仕事よりも、そっちの方が身近になって、なりたいなって思って」
金野さんのお父さんは大船渡市の職員。博物館の館長さんだ。お母さんは魚市場の中にある会社で事務の仕事をしている。23歳のお兄さんは介護福祉士だ。
「ちっちゃい頃って、あまり職業も知らなくて、わかっているのは看護師ぐらいしかなくて、それで看護師志望だったんですけれど、震災とか見て、なりたいって思いはさらに強くなりました。看護師さんって傷を治療するだけじゃなくて、話し相手にもなれる。いろんな世代の人たちと話しながら、関われる。そういう看護師さんになりたいなって今は思っています」
「TOMODACHI~」を体験して、進路のヴァリエイションが増えた人もいます。金野さんの場合はどうですか。
「わたしもやってみたいことは増えましたが、『看護師を基準に』なんですよ。『看護師』という軸はブレずにしっかりあって、その周りにやりたいことがどんどん固まってきてるってかんじです。 アメリカに行ったことで、 無理だって思っても、自分がやろうとさえすればなんでも出来るということを学びました。自分の思うままに生きたほうがいいということも」
金野さんは「看護師にも、いろんな看護師がいるんです」と教えてくれた。
「特定看護師という、凄い難しいことを扱ったりする看護師さんもいれば、ちょっと違った職が混ざっている看護師——たとえば自衛隊の方の看護師さんだと、銃を撃つ訓練とかもしてたりするし——普通に病院で働いている看護師さんだけじゃなくて、そういうのも知りたいなと思って」
特定看護師ということばをこちらは知らなかった。
(次回に続く)