民主主義は面倒くさい

だから、本当に正確にみんなの気持ちや考えを反映させたければ、できればもっと頻繁に風速と温度と気圧の計測をしたほうが、よりモヤモヤの少ない決定になるはずだ。

でもそうそう測定ばっかりやっているわけにはいかない。だから、「確かにあの時の風速はあれくらいだった」という記憶を残しつつ、それでもみんなの様子を見て、話して、聞いて、なるべく多くの人のエネルギーを集めて進めていきたいのだ。

学問的な定義はちょっとわきにおいて、「多くのメンバーの力やセンスをなるべく集めて、一人ではできないことを協力してやるための方法」くらいに民主主義を考えれば、やっぱり「多数決=合意」とざっくりとやってしまって、「後はフリーハンドだから」というのは、逆に民主主義に反するやり方なのだ。

その意味で、じつに面倒くさい。民主主義とは。時間もエネルギーもかかる。

でも、そう考えれば、僕たちがどうして議論などという面倒くさいことをやるのかがわかるだろう。どうして「はい論破!」と10秒だけ爽快な気分になってもしょうがないのかがわかるだろう。どうして、合意をつくるということが、基本的には上手くいかないのかがわかるだろう。

「やれやれ。そんなウザいことばっかりなら、もういいよ。ともゆきさんとトオル君に決めてもらえばいいじゃん。そうそう風速の測定ばっかりやって、また戻して、話して、帰りも遅くなって、疲れるし、どうせ何割かは最初からあんまりやる気ない人もいるし」……そう考えたくなる。

僕だって、時々そういう気になることもある。職場の教授会なんかでも、時々本当に疲れてしまうこともある。

多数決を使うための前提

でも、多数決で勝ったんだから勝ったやつの総取りでよしとすると、その後とんでもないことが起こった時には、もうあまり止める方法が残されていないのだ。なぜなら、「多数派にぜんぶゆだねるって決めたじゃないかよ!」と声のでかい、押し出しのいい連中が強気で封じ込めてくることが多いからだ。

君たちも知っているあのドイツのヒットラーが首相になった時、議席の足し算で多数を握っただけで「憲法を停止してすべての権限をヒットラー個人に与える」という無茶苦茶な法律を、わずか40分の議論(のふり)でガッシャーンと決めてしまった。その後、ドイツが破滅寸前まで追い詰められる侵略戦争をしたことは有名な歴史だ。

そういう歴史の教訓を知っている以上、言うことはこうだ。

多数決は政治の道具の一つだが、それを使うためには「何のために議論するのか」をみんながそれなりに共通して理解していることが必要だ。