「多数決=民主主義」と決めつけると…

そこに、クラスのひとりの苦労人で弁が立って、口ぐせが「勉強してから言えよ!」のトオル君が出てきて、「決まった以上、ガタガタ文句言うなよな! 決まったことが不満なら、もっと頑張って多数決で勝てばよかったんだよ!」なんて言ってきたら、みんなはどう思うだろうか?

「決まった以上は仕方がない」とキッパリと先に進むのだろうか?

「決まったけど、本当には合意はできてない」とモヤモヤするのだろうか?

こういう時に、多数決=民主主義と決めつけてしまうと、こんなことをさらりと言ってしまうのだ。

「投票に勝った以上、あとは勝った側がぜんぶ好きなようにやるからな」
「え? それはちょっと強引なんじゃない?」
「悔しかったら勝てばよかったんだよ。文句言う資格ねぇよ」

こういうことは起こるものだ。

多数決のマジック

ちなみにこの強引な理屈を政治学では「多数決の勝者への統治の白紙委任」と呼んでいる。議会で過半数を獲得した党派は、その後の議会運営をすべて自分たちだけの決定でやってよいという権限を得たのだ、という理屈だ。「勝者総取り方式」なんていう言い方もある。

中高一貫6学年で1学年4クラスあり、クラスごとに40人いるとする。各クラスの意見を聞いて、ぜんぶで24クラスの意見を集約して合意を作ろうとするなら、ひとクラス40人のうち、数字的には各クラス21人賛成すれば、全校生徒960人中、504人しか賛成していなくても24全クラスの意見の合計となる。

そしてこれが「合意してないのに合意したことになってしまう」多数決のマジックだ。

全クラス24の意見が同じなのだから、それを受けた運営委員会は、フリーハンドで何でも好きなように運営できることになる。というか、「好きに運営できるはずだろ? 多数決なんだから。民主主義なんだから」と言われてしまう可能性がある。

でも、限られた時間の中で、およそ「このあたりで決めておいて、細かいところは、いろいろ意見の違いがあることをふまえて、進めていこう」と考えているモヤギリ派からすれば、ちょっと待ってよ、である。

学園祭でのクラスの出し物の話に戻せば、なかなか難しいことだとわかってはいるけれど、できれば決め事に関して大きな意見の違いを残して先に進めていきたくはないと多くの人は思っているのだから、「出し物は○○に決まりました」という多数決の結果があったからといって、それに賛成する人たちが「基本ぜんぶオレ・ワタシらの好きなようにやるから」ということまで認めたわけじゃない。

あくまでも、多数決というのは、時間の制限の中で、「今、この時点での最大風速はどれくらいか?」を計測したものに過ぎないのであって、人間の考えや気持ちはまさに天気のように、あるいは別の事情(先生が突然、「PTAからの寄付が増えて予算が2倍になった」と言ってきたり)で変わりうる。

青空とウィンドソックス
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