名門中高一貫校に入っても、社会で生き抜けるかは別

振り返れば、私の母親も受験でうまくいった私をブランドもののバッグか何かと同一視するような振る舞いをした結果、名門中学に進学した私が受験という生き甲斐を失って長い長い反抗期に突入するのもまた道理と言えます。私は悪くない。

そういう受験戦争にまみれた小学校生活を送った私はその後あまり幸せではない中学時代を送りましたが、社会人になり、いっぱしに統計だ投資だ政策だという仕事に携わってみると、不都合な真実をたくさん知ることになります。あの頃価値だと信じてやまなかった中学受験は、行動遺伝学的にも必ずしもその子ども個人の未来を拓いてくれるわけではないということを知っています。

例えば、名門中高一貫校に入って、その後、教育投資を積み重ねても、実際には進学する大学は平準化して期待値は偏差値55ぐらいに収まってしまうこと。いい環境にいても、そのまま伸びていく子は多数派とは言えず、沈没していく子も一定割合以上はいる。あるいは、中学高校で入った学校の環境よりも、その人の稼ぎや幸福度は、持って生まれた知能やそのサブカテゴリに入っている各種才能によって規定され、むしろ幅広い経験と選択肢を与えて子どもの適性を考えたほうが社会で生き抜くスキルを得られやすいこと。一般的な学力よりも、価値のある、意味のある分野にハマり、その方面に熟達しようと自ら志すほうが、その子の人生に大きな恵みをもたらすと言えます。

そして、私自身も長い反抗期を抜けて社会で生きていくスキルを得たのは、所属していた地元の草野球チームを率いていた技術者が興味半分で立てたパソコン通信(草の根BBS)に参加したことがきっかけです。そこからハードウェアやインターネットに興味を持ち、ドハマりして、クソみたいな私の人生の未来をまあまあ輝けるものにしてくれたのは、やはり才能と巡り合わせの賜物なんだろうなと思うのです。