保育園に50年遅れた公的制度化

かように多様な実態がつかみにくい理由を、石原教授は日本における学童保育の歴史から解説する。

「日本の学童保育が児童福祉法に記載され、国の認める事業になったのは、1997年。それまでは保護者や保育園、地域の有志の人々が、利用可能な施設を活用して、できる形で子どもたちの居場所を作ってきました。その努力や声に応えた自治体による補助や自治体の事業も行われましたが、法的な位置づけはあいまいなままの状態がつづきました。1947年に児童福祉法で定められた保育所とは、50年のタイムラグがあります」

保護者や現場の職員らによってはじめられ、全国に広がってきた「学童保育」と呼ばれていた活動に、「放課後児童健全育成事業」という法令上の名称がつけられたのが、この1997年(1998年度から厚生労働省は「放課後児童クラブ」と呼ぶようになった)。国からの運営補助金は1970年代半ばからあったが、施設数の統計などの実態把握を国が行うことはなかった。法律が財政支援の要求の根拠になり、この時を境に運営予算が増えていった。

「1997年に法改正がされた時点でもまだ、設備や人員配置の最低基準はありませんでした。学童保育は、いわば『なんでもあり』の状態で、現場や当事者団体からは長年、基準を求める声が上がり続けていました」

2012年の法改正でようやく最低基準が示された

要望が実ったのは2012年、「子ども・子育て支援新制度」による各種の法改正で、設備・運営の最低基準を定める「放課後児童健全育成事業の設備及び運営に関する基準」と、運営の質の確保と向上を目指す「放課後児童クラブ運営指針」が策定された(施行は2015年)。また同年、学童保育で働く職員の資格として初めて、「放課後児童支援員」の資格を新設。改正法では市町村に、事業の基準を条例で定めることも義務付けられた。

国会議事堂
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「2012年の法改正(施行は2015年)でようやく、基準を定める市町村の義務ができました。その際、まず国(厚生労働省)の基準があり、職員については国の基準に従って市町村が基準を定めることになった。そして職員以外の項目については、市町村は国の基準を参酌すればよい(必ずしも従わなくてもよいということ)というものでした。国レベルで最低限度が保障される基準は、職員に関してのみ、ということにとどまったのです。それでも、2019年には再び法が改正されて、職員について市町村がつくる基準も、国の基準に従わなくてもよい(参酌すればよい)というものになってしまいました。やっと国の基準ができたのに、再び、市町村によって『ばらばら』な状態を許す方向にいってしまった」

基準の施行からまだ10年を経ないうちに、国の基準に市町村は従わなくてもよいものに戻ってしまった。それが市町村によって「ばらばら」にも見える、現在の学童保育事情の背景だ。