中学時代に家業の家業「服部牧場」を継ぎ大成功

山々に囲まれた草原のなかを白馬が駆ける。そんな絵葉書のような光景が、都心から車で1時間ちょっとの場所にある。神奈川県愛甲郡愛川町にある「服部牧場」だ。服部さんは父親から譲り受けた牧場に誇りを持っている。

服部誠さん
筆者撮影

「米国のジョージ・W・ブッシュ前大統領もテキサス州クロフォードに牧場を持っているんです。多くの人が来てくれて、楽しんでもらえる。そんな牧場を持っていることが、なによりもステータスかな」

セカンドキャリアのことを深く考えずに競技を続ける選手が大半だが、服部さんは「陸上」よりも「家業」を強く意識して“太く短い競技人生”を突っ走った。

服部牧場は1952年、横浜で乳牛1頭からスタートした。服部さんが生まれた年だ。中学2年生ぐらいのときには早くも父親が始めた服部牧場を継ぐことを「決意」したという。

1969年、服部さんが高校2年生のときに、現在の愛川町に移転して、服部牧場は大きく発展していくことになる。この頃、服部さんは陸上選手として注目を浴びていた。

神奈川・相原高3年時はインターハイの5000mを制すと、チームは3人の中長距離選手だけで総合優勝を果たす。全国高校駅伝は1区でダントツの区間賞を獲得。同学年でのちにマラソン日本代表にもなった宗茂、猛兄弟もねじ伏せた。チームは一度もトップを譲らずに、初優勝に輝いた。

世代のエースを獲得しようと、強豪大学の勧誘もすさまじかったという。しかし、服部さんが選んだのは、当時、箱根駅伝から7年間も遠ざかっていた東農大だった。

「陸上だけを考えれば、強いチーム(に行くこと)しか頭になかったでしょうね。でも、将来は農業をやるという父親との約束を果たすために、農学部を選びました。高校卒業時に親父からプレゼントされた手帳に『後継者としての意識を忘れるな』と書いてあったんです。親父の強い気持ちが伝わっていましたし、自分もその気持ちに応えなきゃいけないと思っていたね」

そして服部さんは東農大で“伝説”を残すことになる。1年時に古豪を箱根復帰に導くと、4年連続で花の2区に出場。3年時は首位から1分53秒遅れの13位でスタートして、トップを奪う“12人抜き”を披露した(チームは初の往路優勝)。このゴボウ抜き記録は28年間も破られなかった。4年時は日本選手権の10000mで2位に入り、アジア大会にも出場(10000m3位)。最後の箱根は区間新記録を打ち立てるなど、学生長距離界のスーパースターとして特別な輝きを放った。

その一方で、どのタイミングで牧場を継ぐべきか、大学3年頃から考えていたという。大学を卒業した2年目にモントリオール五輪があり、服部さんはそこを陸上選手としての終着駅に決めた。

「日本でトップを極めないとオリンピックには出場できない。その通過点で箱根駅伝があるから、区間賞は当たり前だと思っていましたね。大学卒業後、1年ちょっとはモントリオール五輪を目指して農大で練習をしたんです。いま振り返ると、あの頃は気持ちが重かったね」