『雪国』の冒頭部分は読者をはっとさせる
ここで、有名な小説の冒頭を引用します。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。(川端康成『雪国』)
たった一行で非日常に踏み込んでいる、という話を本書の第三章でしましたが、他にも語るべきことがたくさんあります(そのために長く引用しました)。
最初、白しかない静かな情景から、登場人物(娘)が出てきて思わせぶりな行動を見せます。ガラス窓を落としたところまで視覚的な描写が続いていますが、雪の冷気が流れ込む感覚的な描写で、読者ははっとします。続く「駅長さあん、駅長さあん」という声で、聴覚的な描写に転じています。色、動作、温度、声と続く描写で、短い行数にもかかわらず、世界が鮮やかになっていきます。
主語がなくても主人公の存在を感じる文章
以下は『雪国』一行目の有名な英訳です。
この英文だけを読んで、ここで描かれている景色を頭のなかに浮かべてみてください。その景色は、汽車がトンネルを走り抜けていく様なのではないでしょうか? ハリウッド映画的な空から撮った映像を思い浮かべる方もいるかもしれません。
一方、日本文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」から想起されるのは、列車の窓から見える光景ではないでしょうか? 主人公が車窓を眺めていた、などとは書いてないのに、その光景が浮かぶのはなぜなのでしょうか?
それは、語り口から主人公の存在が感じられるからです。
日本語は主語を省いてもまったく違和感がないため、意外な文章や、ちょっと謎めいた文章が簡単に作れます。これを活かさない手はありません。
輝いているリングに立ってみると、対戦相手とレフェリーしか見えない。
ぎらついた照明が白く落ちる。ゴングが鳴った。
小説ワークショップの生徒さんが書いた小説の冒頭です。見事ですね。
主語を省くことで、説明的ではなく迫力のある文章になります。また「この主人公はどんな人なのだろう」という謎も生まれます。
生真面目に主語を書くのではなく、思いきって省くことを、方法論として持つべきです。