メディアも一枚岩ではない

いまの時点で一つ指摘できるのは、2022年から現在に至るまで暇空氏の活動は訴訟を重ねても一定の支持者を獲得し、特にX上では定期的に話題にトレンドに上がってくることだ。

内側から見えるメディア企業は外から見るほど一枚岩ではない。社説がリベラルな新聞社でも同じ社内でも保守的な主張を持つ者もいれば、ものすごくリベラルな思考を持つ者もいる。その逆も然りで社論が保守的でもリベラルな記者もいる。

その中にあって、暇空氏の主張に惹かれるという関係者が出てくることも当然ながらありうる。ただし、これまでのメディア企業であれば表面的な主義・主張よりも最も優先される原則があった。それが取材源の秘匿だ。

どんな政治的な立場であっても、取材源が特定されるような内容を第三者に流すことがあれば当然ながら懲戒の対象だ。

「Colabo」をめぐる問題はSNSを中心に一定の関心を持たれてきたため、インターネット上で加熱して語られている。すぐにNHKがメモ流出の責任をとって、「Colabo」に謝罪に訪れれば公開された写真の構図や、「なぜ暇空氏に謝罪にいかないのか」といった議論にスライドした。

NHKが当該企画の取材先でもあった「Colabo」に流出の経過説明および、謝罪をすること自体はメディア企業の慣習に照らし合わせてもさほどおかしなことではない。事実関係の訂正をする際も、直接取材協力者や取材を受けた側に謝罪を求められれば責任者が対応をすることはよくあるからだ。

問題の本質は「取材源の秘匿」にある

構図等々の問題は関心がある者同士で議論をしていけば十分なので、私から特に書くべきことはない。両者の法的な抗争もいずれ決着がつく。この一件をもって「Colabo」の活動を支持し続ける、もっと寄付をするという判断があってもいいし、写真がおかしいと思えば批判をすればいい(もっとも法的な意味で誹謗中傷にあたる言説は論外だが)。一連の問題について、マスメディアに携わる私にとって事の本質は極めてシンプルだ。

NHKのメモ管理の「効率の良さ」、そして取材源の秘匿という原則が踏み外されたことだ。

私がかつて所属していた新聞社の場合、企画案や取材メモの共有範囲はかなり絞られていた。現役記者だった頃、企画の取材班に入った場合は企画班のメンバー全員に社内メールでメモを送るというシンプルな方法が徹底されていた。

インタビュー中、記者たちが差し出す各種レコーダー
写真=iStock.com/microgen
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高度な個人情報を扱う特ダネが絡む調査報道になれば取材源秘匿の原則が詳細な取材メモの作成以上に優先されてきた。ひとつ事例をあげよう。

私はある保守系大物議員および事務所関係者が、暴力団関係者が関わる企業に公的機関の融資を仲介したという疑惑を追いかけていた。この手の取材は「言った」「言わない」が鍵になるので、自分で確認するため、そして社内での説明用に詳細なメモを手元に残していたが、取材を統括する上司に報告する際は発言者を匿名にした上で、社内でメモを印刷してファイルに綴じた上で手渡すか、急ぎの場合はすぐに電話して連絡するに限っていた。ファイルの管理も徹底した。