そのため、マグロ養殖の生産現場では、職員の足音に驚いたマグロが壁などに衝突し、死亡してしまうケースが多発してきました。それが、マグロの養殖が困難だと言われる要因です。だからといって、天然のマグロばかりを獲っていると、生態系に影響を及ぼし、やがてマグロを誰も食べられなくなってしまうかも知れません。

この問題を解決するために、近年研究が進められているのが、「大人しいマグロ」を作るという試みです。ゲノム編集によって運動制御にかかわる遺伝子を操作された、通常よりも鈍感で、遊泳速度の劣ったマグロであれば養殖場での衝突死を回避できるというわけです。実際に、「大人しいマグロ」は2019年に水産技術研究所が開発に成功しています。

他にも、栄養摂取の効率をよくすることによって、少ない餌で成長するようにしたり、細胞の性質変化を起こすことで、うまみ成分が多く含まれる魚を作ったり、細胞を増大させることで、肉厚で可食部の多い魚を作ったり、と食用魚に対するゲノム編集の応用として様々な手法が開発されています。

ところで、「大人しいマグロ」は、通常の個体よりも認知能力や遊泳速度が劣っているのであり、能力が「増強」しているよりむしろ、低下させられています。しかし、養殖のしやすさという点で見れば、通常のマグロよりもよい、ということになるのです。そういうわけで、この場合のマグロへのゲノム編集は「エンハンスメント」であると考えられます。ものは言いようですね。

結局のところ、何を能力の増強と見なすかは、その生物がどんな目的のためにゲノム編集されるかによって、変わってくるのです。

デザイナー・ベイビーと生命倫理

さて、こうしたゲノム編集が人間に対して使われると、どうなるでしょうか。

親は、これから生まれてくる自分の子どもの能力や外見を、自分の好きなようにデザインできるようになります。子どもの性格さえも変えることができるかも知れません。

記憶力がよく、金髪で目が青く、反抗することのない大人しい子どもが欲しいと思えば、そうした子どもを意図的に生むことが可能になるかも知れないのです。

このように、親によって身体をデザインされた子どものことを「デザイナー・ベイビー」と呼びます。しかし、こうしたゲノム編集の用途には重大な倫理的懸念があると考えられており、生殖細胞をゲノム編集し、その胚から子どもを実際に出生させることは、世界的に禁じられています。

ところが、近年、それを破る研究者が現れ、世界を驚かせました。2018年、中国の研究者である賀建奎(フー・ジェンクイ)が、ゲノム編集されたヒト胚から双子を出生させたのです。

賀が試みたのは、HIV(ヒト免疫不全ウィルス)に対して抵抗力をもつ子どもを作成することでした。HIVは母子感染する疾患として知られており、親がHIVの感染者である場合、その子どもも感染する可能性があります。ところが、もしもゲノム編集によってこれから生まれてくる子どもにHIVへの抵抗力を持たせることができれば、HIVに罹患した人であっても、子どもを持つことへの心配が減ることになるでしょう。

そのような動機で、賀の研究は行われたのです。