心臓に問題があると疑わなかった理由は、ふたつあります。

ひとつは、私の家族に心疾患で亡くなった人はいなかったこと。もうひとつは、医療ライターにもかかわらず無知なことに、心臓は左胸にあると信じ込んでいたことです。自分の胸の痛みは中央でしたので、心臓のことを疑いもしませんでした。

心臓が動く「ドキドキ」は、胸の左側から感じられる。そのため心臓が左側にあると思う人が多いが、実際は胸の中央やや左寄りに位置する。左右それぞれに心室と心房があり、外から流れ込む血液は心房へ入り、心室を経て外へ押し出される。左右のルートは完全に分かれており、右心系は肺に、左心系は全身に血液を送る(位置が左右逆転している人もまれにいる)。全身に血液を送るほうが、肺に血液を送るより4~5倍強い圧が必要になる。そのため全身を担当する左側のほうから「ドキドキ」を感じるのだ。

もし痛みを感じた時点で病院に行っていたら、詳しい検査を受け、心疾患の疑いありと診断をされたことでしょう。後に循環器内科の主治医に、どこがどう痛む場合に病院に行くべきかを教えてもらいました(「心疾患を疑うべき胸の痛み」表)。私が感じていた「ネクタイの範囲」も、病院に行くべき痛みだったことが、改めてわかりました。

【図表】心疾患を疑うべき胸の痛み

私が心肺停止に襲われる2年前から、母ががんと闘病し、3カ月前に他界しました。また看護や葬儀などについて考えが異なったことから、親族と口も利けないほど険悪な状態になってしまいました。母を喪った悲しみに加え、親族との関係が、私にとって相当なストレスになっていたと思います。

強いストレスが動脈に悪影響を与え、心筋梗塞、狭心症、不整脈などを引き起こすことを知りました。私は入院中に受けたカテーテル検査で、ストレス負荷をかけると冠動脈が著しく細くなる体質だと判明しました。ストレスを甘く見てはいけないのです。

身元がわかるものを携帯していないと心臓突然死に襲われ無縁仏になる可能性も

山手線内で倒れた私は、浜松町駅で駅員さんたちに蘇生措置をしていただきました。AEDを4回もしてもらったのですが、心拍は戻らず。そこで救急車が来るまで、駅員さんたちが絶え間なく心臓マッサージをしてくれたそうです。

この蘇生措置のおかげで、心肺停止によって止まってしまった血液を、脳に送ることができたのです。

私が倒れてから救急隊が到着するまで、約20分が経っていたそうです。心肺停止後の数分が、生死の分かれ目といわれています。私が後に社会復帰できたのは、奇跡だと言われました。心肺停止で救急搬送された人が社会復帰を果たせるのは、1割程度。私くらいの時間がかかった場合は、確率として約3%だそうです。

たまたま山手線の車内ということで、訓練を受けた駅員さんによる心肺蘇生を受けることができました。これは本当に幸運なことです。もし道路を歩いているときに倒れたのなら、もし一人で住む家の中で倒れたのなら。私は間違いなく死んでいました。

救急隊によって病院に搬送された私は、すぐに集中治療室で治療を施され、人工心肺に繋がれました。

その病院は治療のほかに、面倒なことを抱えてしまいました。意識不明で救急搬送された患者については、病院は所持品から身元を割り出します。ところが私は、自分の身元を記すものを携帯していなかったのです。その日は運転免許証も健康保険証も持っていませんでした。スマホはロックされ、なんら情報を引き出せません。

家族に連絡を取る手がかりとなったのは、たまたま私が財布の中に入れっ放しにしていた父の名刺。そこに書かれていた電話番号に電話をしたことで、連絡が取れたのです。

【図表】常に携帯したい身元情報

高次脳機能障害で長期間のリハビリを

病院に集まった家族は、管に繋がれた私の姿を見て、もう駄目だと感じたといいます。たとえ一命を取り留めても、重度の障害を残すだろうから、誰が介護をするか。そのような話し合いを続けていたそうです。

熊本さんが人工心肺を外され目を覚ましたのは、集中治療室に入って2週間後。すぐに皮下植え込み型除細動器を左胸につける手術を受けた。

意識を取り戻したのはいいが、脳は大きなダメージを受けており、高次脳機能障害と診断された。注意力や記憶力が著しく低下したうえ、感情のコントロールもきかず、妄想や暴言を繰り返す。本人は脳に障害があるという自覚はまったくなく、病院から脱出を試みてはつかまり、ついには腰に鍵付きの拘束ベルトをつけられた。

その後、リハビリ病院に転院。主治医、理学療法士、作業療法士、臨床心理士、看護師のチームが作った計画にのっとったリハビリ生活が始まった。退院できたのは山手線で倒れてから2カ月が経った頃。その後も社会復帰を目指し、通院してリハビリを続けた。