※本稿は、稲垣栄洋『雑草学研究室の踏まれたら立ち上がらない面々』(小学館)の一部を再編集したものです。
進学校出身の学生に多い「指示待ち型」
バイオリンが得意な満藤さんは、もともと、とても優秀な学生である。
しかし、ひとつだけ気になることがあった。
それは、彼女がやや「指示待ち型」であるということである。
とにかく、私の顔色をうかがい、私が何を考えているのかを察しようとする。そして、私が期待するような「正解」を正しく導いてしまうのだ。
「満藤さんは、どう考えているのだろう? 満藤さんは、何をしたいのだろう?」と彼女の考えていることを察しようとしても、彼女は先回りして「私が考えていること」を察しては正解を出してしまう。
まるで出題者の意図を察知して答えを導き出す受験生だ。
じつは、進学校出身の学生には、「指示待ち型」が多い。
受験では、答えのある問題を解き続ける。すべての問題に答えがあり、あらかじめ解き方がある。そして、それを要領よくこなしていく子が優秀と褒められる。おそらくは、それを繰り返しているうちに、否応なしに用意された答えを探す学生になってしまうのだろう。
「私の中に答えはないよ。答えは満藤さんの中にあるのだから」
しつこくそう言っても、満藤さんは私の中に答えを探しに来る。
いかにして主体性を引き出すか
研究はわからないことを明らかにするという、ある意味で未知への挑戦である。指導教員であっても答えを持っているわけではない。指導教員と学生が共に、答えを探し求めなければならないのだ。それが、研究である。
もちろん、研究だけではない。
世の中は「答えのない問題を自分で作り、答えのない問題を解く」その連続だ。
特に現代は、先のわからない時代と言われる。学生たちも卒業した後は、誰も答えを知らない世界で生きていかなければならないのだ。
満藤さんは、研究もよくできるし、レポートを書かせれば文章もうまい。おまけに英語も得意だ。物足りないのは主体性だけである。
いかにして、彼女の主体性を引き出すかが、私が彼女に対して考えていることだった。
私は彼女を呼び出して、こう諭した。
「満藤さんは、もっと主体的にやらないといけないよ」
「ん?」
私はそう言いながら、「何かこの言葉、おかしくないか?」――と、自分で自分のことがおかしくなった。
だって、そうだろう。
何しろ「主体的にやりなさい」は、それ自体が指示である。
主体的にやりなさいと言われて、主体的になることは、もはや主体的ではない。
「ん???」
自主性や主体性って、いったい何なのだろう?