美しい言葉を真似ることの大切さは、日本に限ったことではありません。私がイギリスに滞在していた頃に出会った、一部の語学留学生は、品のない英語をしゃべっていました。語学学校に通う仲間同士でしゃべる分にはそれで構いませんが、もし相手が然るべき立場や身分の人だったら、そのしゃべり方では馬鹿にされて相手にしてもらえないでしょう。そういう英語を話す人たちと日本語で話してみると、日本語にも品が欠けていました。つまり彼らには、母語であれ外国語であれ、自分の話している言葉がどのような言葉なのか、自覚がないわけです。

言葉を上達させるには、上品な言葉か下品な言葉かを聞き分ける注意力が必要です。自分が話している母語である日本語が、一人前の人間としてふさわしい言葉であるか、それともだらしない言葉であるかという意識もない人は、外国語も上達できません。

イギリスのような階級社会で暮らすと、言葉の大切さがよくわかります。どういう英語を話すかで、信用が全く異なるのです。イギリスのエリートは皆、「オックスブリッジ・アクセント」といわれるしゃべり方をします。そうでないと信用されないのです。マーガレット・サッチャーの後に首相になったジョン・メージャーは、高学歴ではありませんでしたが、やりすぎだといわれるくらい、オックスブリッジ・アクセントでしゃべっていました。

日本もイギリスほどではないにせよ、話し方によって受ける印象は変わりますから、洗練された話し方を意識して身につけることは大切です。ただ、話し方は環境から学ぶもので教えようがありません。だから、自分が見習いたいと思った人がいれば、その人の話し方を意識的に真似て身につける必要があります。

「死んだ言葉」で話さないために

私は仕事柄、さまざまな職業の人と話す機会がありますが、一流の人と話をすると「立派な話し方をするな」と感じることが多いです。言葉が丁寧な人は、態度も感じが良いもので、第一に謙虚です。人の上に立って良い仕事をする人で、威張る人に会ったことがありません。偉い人ほど、言葉も態度も優しく、へりくだった感じがします。

それはおそらく、その人が若い頃に、上の世代の人たちの立ち居振る舞いを見ながら、「ああいう威張り方はよくないな」「目下の人にも優しく接するのは尊敬できるな」などと、意識的に真似る対象を選んで学んできた結果ではないかと思います。私自身も、若かった頃に出会った人たちに学び、感じの良い人のことは真似るようにし、逆に印象の悪かった人は反面教師として真似をしないように努めてきました。

私が話し方に魅力を感じる人物の一人が田中角栄です。いわゆるインテリではないし、上品な話し方ではありませんが、一度会った人はみんな、角栄さんの虜になるといわれました。今でも演説を聞くと引き込まれます。その理由は、最近の日本の政治家と違い、話すときに原稿を見ず、自分の言葉で話しているからです。

政治家に限らず、相手に何かを伝えたいのであれば、話すときに原稿を読んではいけません。最近はパワーポイントなどを使い、そこに書いてあることを読む人も多いですが、大事なのは自分の言葉で話すことです。事前に用意した原稿はすでに死んだ言葉です。生きた言葉を話さなければ、相手の心には響きません。私も講演をする際は、要点をまとめた紙は用意しますが、フリーハンドで話します。資料やパワーポイントを使うのであれば、最初からそれを配布すれば済む話です。「この人の話を聞かないと損するぞ」と感じさせるものがなければいけません。

話をするときは、一人ひとりの目を見ながら話すようにします。手元の資料を見たり、漠然と後方の壁を見ながら話をしても、内容は伝わりません。田中角栄は「いいですか、みなさん」と一人ひとりに語りかけ、時折「ね、そうでしょう?」と特定の聴衆に声を掛けたりしました。これこそが話術の秘訣です。聞き手の反応をうかがいながら、話す内容を臨機応変に変えていくことが大切なのです。世阿弥も、舞台に出ていった瞬間に、その場の空気を読み、それに合わせて演じ分けることの大切さを説いています。場の空気を読めない人はダメなのです。

私の場合、90分の講演を頼まれたら、少なくとも300分くらいの準備をして臨みます。もちろん準備した内容をすべて話すわけではなく、お客さんたちの反応を見ながら、求められている話の筋を読みつつ、時間通りに話します。大事なことは、余白を用意しておくということです。

老荘思想に「無用の用」という言葉があります。役に立たないように見えるものが、実は大切な役割を果たしているという意味です。歩くとき、地面に接しているのは足が踏んでいる部分だけですが、もし地面が足の踏む部分しかなければ、とても怖くて歩けないはずです。車でも、路肩のない道は走りにくいものです。それと同じように、実際には話さない内容もたくさん用意しておき、その中の要点をかいつまんで話していくから、話が面白くなるのです。用意したことをすべてしゃべろうとするのは説得力がありません。90分の講義なら、少なくとも倍の180分くらいは用意すべきでしょう。