古典の中に答えはあった! 能から学ぶ「真似の極意」
能の大成者といわれる世阿弥は、真似ることの深淵について言及してきた。作家の林望氏が「言葉」と「真似」を語る。
学校や本では言葉づかいは学べない
人は一番初めに使う母語を、どのように獲得するのでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんは何も話せませんが、家族や周囲の人たちの話す言葉を真似ながら、少しずつ言葉を覚えていきます。そのため、言語を獲得するうえで、環境は非常に重要です。子どもの頃に不十分な言語環境で育つと、洗練された言葉づかいはなかなか身につきません。以前、高校生ぐらいで海外から日本に戻り、日本の学校になかなか適応できない帰国子女の子どもたちを教えたことがありました。適応できない最大の原因は、敬語の欠如など、言葉づかいが洗練されていないせいでした。
洗練された言葉づかいの一つとして、話す相手によって言葉を使い分けることが挙げられます。日本語は、位相によって使う言葉が変わってきます。代表的なものが「男言葉」と「女言葉」です。徐々になくなってきてはいるものの、今でも男らしいしゃべり方・女らしいしゃべり方は残っています。また、相手が目上か目下か、親しいか親しくないかによっても言葉づかいは変わります。
海外で生まれて外国語で話す環境で育つと、こうした違いはわかりません。例えば英語の場合、相手が誰であっても「You」と呼びますが、日本語の場合、目上の人を「あなた」と呼ぶのは失礼に当たります。こうした言葉づかいの違いは、本を読んでもなかなかわかりませんし、学校でも教えてくれません。教えてくれるのは、やはり育った環境です。小さい頃は、お父さんとお母さんの会話などを通じて、男言葉と女言葉があることを学びます。さらに成長する過程で、目上の人に対する敬語の使い方や、大人としてのきちんとした話し方などを、周囲の人たちと接する中で見聞きし、「こういう言い方がふさわしいんだ」「ああいう言い方はいけないんだ」と学びながら、言葉を洗練させていくわけです。
したがって、親子関係や友人関係、学校での先生と生徒の関係、会社の上役と下役の関係など、さまざまな人間関係の中に身を置き、常にアンテナを張っていないと、洗練された言葉づかいというのはなかなか身につきません。
室町時代に能を大成させた世阿弥は、能楽論書『風姿花伝』の中で、演じ方についてこのように述べています。身分の高い人を演じるときは、言葉づかいや動作をよく研究し、その世界をよく知っている人に教えを乞うこと。逆に下品な人を演じる際は、あまり精緻に真似ると、見るほうが嫌になるからほどほどにしておけ、と。これにならえば、私たちも日常生活の中で、美しい話し方をする人や感じの良い人を注意深く観察して、良いと感じた部分を積極的に真似ていくことが大事だと思います。