日本で17年以上暮らすウクライナ出身の楽器奏者・カテリーナさんは、戦争で日本に避難しながら「ウクライナに帰りたい」と悩むウクライナ人の友人を理解できずにいた。だが、友人のある一言がカテリーナさんをはっとさせた。カテリーナさんの著書『ウクライナ女性の美しく前向きな生き方』(徳間書店)より、一部を紹介しよう――。

戦禍のウクライナに今なお暮らす姉たち

私には3人の姉がいます。私と14歳違いの長女は、ウクライナの中央に位置する街に夫と小さな子どもと住んでいます。

姉はもう50代になるので、戦争が始まってもウクライナの国から出る、という選択肢は最初から考えていなかったようです。

二番目の姉はずっとキーウに住んでいます。彼女はキーウから一度、150キロ離れた町にある夫の実家に避難しましたが、結局、そこも危なくなって、早めに別の場所に避難しました。

避難した翌日、それまでいた実家の隣の家にミサイルが落ちました。早めに逃げて良かった、と胸をなでおろしましたが、その後、一番上の姉の家に避難したあと、現在はキーウに戻ってきています。

二番目の姉には、ウクライナから出たくないという気持ちと、出たくても出られないという事情があります。いつ軍隊に行くかもわからない夫を一人だけ残してウクライナから出ることは絶対に嫌だ、と言うのです(ウクライナでは戦争が始まってから成人男性は出国することはできない)。

「原発が爆破されてもこの街から動きたくない」

その二番目の姉の娘マーリーカは今、ザポリージャに夫と一緒に住んでいます。

ザポリージャという街は、戦火が激しいウクライナ東部地方から離れた場所にあるので、戦争が始まった当初、姉は私に、「そこまで戦争は大きくはならないから大丈夫よ」と話していました。

確かに戦争が始まっても比較的に安全な地域ではありますが、問題は街の中に原子力発電所があるということです。

ザポリージャ原発に爆発物が仕掛けられた、というニュースが流れたとき、私は心配で姉にすぐ連絡をしました。原発が破壊されるなど不測の事態にならないかと心配する私に、

「そうなってもこの街から動きたくないの。もちろん毎日、警報が鳴ったり、ヘリコプターが飛んだり、戦闘機が飛んだり、いろいろ不安ではあるけれど、頑張れるところまで頑張る」

と気丈に話してくれました。

ザポリージャへの攻撃が増えて危険になってきた時期、マーリーカの子どもだけをキーウにいる私の母と二番目の姉のもとに預けていた時期がありました。でも、子どもに何かあっても大変なので、結局、マーリーカは子どもを自分たちがいるザポリージャに連れ戻し、今、家族3人で一緒に暮らしています。