長老・前田利家が死ぬ前後、家康は何を考えていたのか

家康は私婚について、四大老らから突っ込まれることは、おそらく最初から予想していたでしょう。その時は(このように話をまとめよう)ということはある程度は考えていたはずです。それが前掲の起請文の内容だったように推測します。四大老らの家康に対する意見を「御理」(道理)とした上で、今後の対応策を提示する。それで、私婚問題を不問に付してもらい、物事を丸く収める。追及された際は、このように乗り切ろうと、家康が考えていたからこそ、問題が起こっても、すぐに解決の方向に向かったのではないでしょうか。

さて、閏3月3日、かねてより、病であった前田利家が大坂で亡くなります。「五大老」の1人・前田利家の死の直後、加藤清正・福島正則・蜂須賀家政・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興ら「七将」が石田三成を襲撃しようとする事件が起こります(近年では、襲撃ではなく、三成を訴えようとしたとも言われています)。

「清正公/浄池院殿永運日乗大居士肖像」(原本京都府勧持院所蔵の複製画)
「清正公/浄池院殿永運日乗大居士肖像」(原本京都府勧持院所蔵の複製画)(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

三成が加藤清正ら朝鮮出兵組に恨まれていた理由とは

では、七将は、三成になぜ遺恨を抱いていたのでしょう。それは、朝鮮出兵の際、三成方の軍目付(福原長堯)の報告により、彼らが秀吉から譴責けんせき処分を受けたことによるとされます。朝鮮半島在陣の彼らが、戦線を縮小しようとしたと弾劾。秀吉は激怒し、蜂須賀家政と黒田長政は蟄居ちっきょと領地の一部没収。藤堂高虎や加藤清正は譴責処分を受けたのです(こうしたこととは別に、三成ら吏僚派と、七将ら軍人派との間に確執があったとされます)。

七将の不穏な動きを聞いた三成は、伏見城内の自邸に逃れます。かつては家康の屋敷に逃れたのではと言われていましたが「伏見城内の治部少曲輪」にある自分の屋敷に避難したのでした。三成は自邸に逃れたは良いが、そこから出られなくなってしまいます。

一方、七将も三成を追い込みますが、伏見城内に乱入することはできません。膠着こうちゃく状態に陥るのです。ちなみに『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、七将による襲撃を聞いた三成は、急なことに驚き、恐れ「身の置所を知らず」とあります。宇喜多・上杉・佐竹といった大名は、三成と親しかったので「この危機を逃れるには、内府(家康)の意向を伺い、そのあわれみを乞うしかない」とアドバイスし、三成もそれに従ったとあります。佐竹義宣は、深夜に三成を「女輿」に乗せて、伏見まで行かせたとも記されています。