現役を引退してひとりの観客となったいまも、この経験は忘れられない。だから私は、その試合のみで選手を評価しない。たとえこちらの期待を裏切るプレーを目の当たりにしても、その次の試合や、そのまた次の試合を注視する。過去の悔しさは、プレーの一挙手一投足に宿り、観る者にもそれは伝わるからだ。
あの試合はサントリーにしてやられた。対戦相手が一枚上手だった。ただそれだけだ。どの選手も、どのチームも、負けようとして試合をしているわけではないのである。
「やるせなさ」は成熟した大人なら抑えるべき
そうはいっても、なかにはプロセスが空虚な敗戦という、目も当てられない試合があるのも事実だ。見るべき場面がほとんどない負け試合なら、入場料を返してほしい気持ちにもなる。やるせない気持ちになり、怒りが暴発しそうになる気持ちはわからないでもない。だがそこは、成熟した大人であれば抑制すべきだろう。
当事者としての選手やスタッフもまた、気が抜けた試合をしたことに反省すべきであることは論をまたない。プロスポーツである以上、どの試合も、どのプレーも手を抜いてはならない。勝敗が決するほど点差が開いた状況でも諦めず最後までプレーするなど、負けてもファンが納得できる場面をひとつでも多く創出する。選手やスタッフは、常にこれを心がけなければならない。
勝利を目指しながら、観る者が思わず目を奪われる場面を選手は創出する。ファンはその一つひとつに目を凝らす。勝敗以外のところでスポーツを観る目をともに養い、そして互いに敬意を払う。そうすればファンの暴徒化が防げるとともに、スポーツが内包する文化的な価値を守ることができると私は思う。