人の価値を属性によって判断する恐ろしさ

2016年に発生した相模原障害者施設殺傷事件の加害者は、「国の負担を減らすため、意思疎通のとれない人間は安楽死させるべきだ」と述べたが、それに「一理ある」という声も少なからずあったと記憶する。

性的マイノリティにたいして、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と発言した国会議員は、いまだに辞職することなく議員の椅子に座ったままだし、彼女の発言を擁護する人もいる。

また、少子化ならびに超高齢化によるわが国の社会保障費の増加を議論する場において、その解決のために、

「高齢者は集団自決すべきである」
「終末期医療の延命治療は保険適用外にすればいい」

といった持論を展開した“学者”たちは、メディアに引っ張りだこだ。

一見、これらは「福田村」で民衆たちが“共有”していた恐ろしい認識とは異なっているように思えるかもしれないが、その思考に通底しているものは同質である。これらの言説が対象としている人たちの属性に違いはあるが、共通しているのは、「人の『価値』は、その属性によって優劣があって当然である」という思考なのだ。

「生産性のない人間に価値はない」
「価値のない人は死んでもかまわない」

ここまでハッキリとは言わずとも、これが先に掲げた言説に共通している認識なのである。

Aさんを見ても同じことを言うのだろうか

このような考えを持つ人にもしAさんの様子を見せたら、はたして何と言うだろうか。

「ほら、人間というのは役に立たないと自覚しながら生きていくほどつらいことはないのだよ。この女性の言うことは、極めて真っ当。早く死なせてあげるのが彼女にとって幸せなのだよ」と言うかもしれない。

しかし、本当にそれがAさんの幸せなのか、第三者が簡単に勝手に評価してしまって良いのだろうか。

先述したように彼女が「何の役にも立っていない」などと私は思わない。百歩譲って「何の役にも立っていない」というのが真実であったとして、役に立っていない人は、「生きる価値」や「生きている資格」はないのか。さらに具体的に言えば、公的社会保障制度を使って生きていくことは控えるべき存在なのか。

もっといえば、Aさんのような末期がんの人以外の、例えば認知症の人、ひとことも言葉を発することなく経管栄養や人工呼吸器で生命をつないでいる人、そのほか「延命治療で生かされている人」とのレッテルを一部の識者によって貼られている人……。これらの人たちは、誰の役にも立っていないのだろうか。

答えはノーである。