さらに、父の兄弟分の親分さんがくると「若、これで好きなものでも買いな!」と封筒に入ったお札の束を渡されるなんてこともありました。記憶が定かではないのですが、あの厚みを思えば30万円は入っていたのでは……?

このお年玉は、年齢が上がるにつれて金額も比例して上がっていきました。

高校生の頃には当時の大卒新入社員の年収を軽く上回るような額をもらった年もあります。その頃の日本はちょうどバブル絶頂期、組員たちの景気も良かったのだと思います。組員にとって正月はヤクザ特有の“見栄”を張る場であり、私へのお年玉はその格好の舞台ということだったのでしょう。

もっとも、それだけのお年玉を手に入れても自由には使えませんでした。

お年玉はもらうとすぐ祖母に没収され、その厳重な管理下に置かれたため、私が使うことができたのは、ほんのわずかでした。そういう意味では、金銭感覚が大きく狂うということはなかったのかもしれませんが、一度、現金を目にしている分、心の片隅ではいつも「僕はすごい大金を持っているんだぞ!」などと思っていました。う~ん、我ながら嫌な子どもでしたね。

父の豪快な金の使い方

お小遣いやお年玉をほとんどくれたことのない父でしたが、決してケチというわけではありませんでした。

これまで何度か触れていますが、ヤクザというのは見栄の世界です。同業者や仲間内へのお祝い事には金銭を惜しみませんでしたし、頼られてお金を援助するようなこともありました。お金は使い方によって“生き金”と“死に金”に分かれるとよく言われますが、父のお金の使い方はまさに“生き金”だったように思います。

その代表的なエピソードとして記憶にあるのが、“勝手に舗装事件”です。

あれはたしか、私が小学校2年生の頃だったと思います。