小泉今日子が作った「自覚型アイドル」の形式

1982年に『私の16才』でデビューした小泉今日子は、当初、「聖子ちゃんカット」など清純派アイドルとして松田聖子を真似たフォロワーに過ぎなかった。同世代アイドルの中では高い人気を誇り、出演ドラマもヒットしたが、「時代を代表するアイドル」というレベルからはほど遠かった。

彼女が飛躍したのは1983年に髪を刈り上げに近いショートにして、それまでのかわいらしい女の子路線からボーイッシュの領域に入ってからである。人気をだめ押ししたのが、1985年にプロデューサーの秋元康が仕掛けた『なんてったってアイドル』(1985年)である。この曲で、小泉今日子は「アイドルであることを自覚して楽しんでいるアイドル」という新たなイメージ作りに成功して、時代を風靡ふうびする松田聖子・中森明菜に肉薄しながら、伝統型アイドルとは一線を画す独特の地位を得ることになった。

私が言う「自覚的アイドル」は、小泉今日子がその原型を作り上げたと考えている。その核にあるいのは「アイドルであることを楽しんでいるアイドル」のことだ。小泉はこれ以後、その発言が大衆に影響を与えるほどのポジションを獲得して、紹介した本がベストセラーになるほど、若い女性たちにとってのアイコンであるとともに、代表的なオピニオンリーダーとなっていく。

「アイドルを楽しんでいる」は希少な存在だった

それまでのアイドルは指示されたことを一生懸命にこなすという「受動型」が中心であって、自覚的アイドルという地位は特権的と言っていいほどまれである。自分で作詞を始めた松田聖子や自己プロデュース力が高かった中森明菜は受動型ではないが、小泉今日子には彼女一流の「アイドルを楽しんでいる」という要素があった。

このことが功を奏して、小泉今日子はバッシングに遭うことがほとんどなかった。それに対して、先行者であるピンク・レディーは当初は「ゲテモノ」(今で言う「キワモノ」)とバッシングされた。さらに、松田聖子は「ぶりっこ」、中森明菜は「わがまま」と過剰なバッシングを受けている。多くの売れっ子アイドルが「ぶりっこ」であり「わがまま」であるはずだが、両者はあまりに突出したことで、アイドルとしての当たり前の属性で叩かれてしまった。

のちに小泉が「読んだと公言した一部の本を実は読んでいなかった」と告白している。自覚型アイドル小泉今日子という像も、結局は、大半は仕掛け人が考えたものである。つまり、「自覚型アイドル」とは実際にアイドルを楽しんでいるのではなく、あたかもアイドルを楽しんでいるがごとく行動するアイドルであって、「作られたもの」である点では、受動型も自覚型も大きな差はなかったのである。

ただそれでも、「アイドルであることを楽しんでいるアイドル」に脱皮した小泉今日子の存在感は圧倒的でありつづけた。