若者がひとつの組織に長居しないことが歌壇にも影響している
さて、会社の終身雇用が当たり前でなくなり、雇われる側のほうでも1つところにいずに何度も転職するのが当たり前になってきたことは、歌壇のありかたにも影響を及ぼしているようだ。
短歌の世界は、今でも、師匠と弟子の関係が残るところだ、古い体質が綿々と続いてきた。弟子は、作品を作っては師匠に見せ、選歌や添削を受ける。選歌や添削によって、短歌の作り方を学ぶのである。これは、うまく機能すれば、優れた文化伝統の継承となるが、ダメな師匠だと、弟子の才能をつぶしたり、間違った方向づけをしたりすることになる。優れた師匠でも、自分の作風の縮小再生産を弟子に強要しがちである。そんな例は枚挙に暇がない。
社会の流動性が高まり、価値観の揺らぎが大きくなることは、上にあげたように短歌の質を変えつつあるが、同時に、歌壇のありかた、歌人の生き方にも変化をもたらしている。ひとつの結社、1人の師匠に長くつくのではなく、多くの歌人と交わって多様な作風を学び、結社の枠にとらわれないで離合集散しながら新しい文芸を生み出す。よく考えれば当たり前のことなのだが、短歌の世界では、実社会の変化によってこれが加速されていくようにも思える。これには、ツイッターなどSNSが果たす役割も小さくない。
LGBTQの歌人たちが詠む反社会的ではない性のありかた
性の多様性は、以前より文芸のテーマであった。現代文学(いわゆる戦後文学)でも、三島由紀夫の『仮面の告白』があり、短歌の世界では、春日井建が歌集『未青年』で同性愛を詠ったと言われている。
最近の若者には、しばしばLGBTQの歌が見られるが、以前ほど反社会的な緊張感に満ちたものではなくなった。もっと自然にさりげなく、しかし今風の葛藤を抱えながら、新しい性のありかたを表現しているようだ。
小佐野弾『メタリック』
小佐野弾はオープンリー・ゲイとして知られるが、あくまでも自然体でそうなのである。彼は、現代の都市が「ソドム」(『旧約聖書』「創世記」に出てくる同性愛の都)と同質のものであることを、生理的に理解する。こういう体験によって、心のありかたが自然に変化していくのである(オープンリーでないLGBTQの歌人たちにも良い歌がたくさんある。作者がオープンにしていないので、ここであげられないのが残念だ)。
さて、近代以前の日本社会は、ホモセクシュアルに関して寛容であった。真実のほどはともかく、足利義満と世阿弥、織田信長と森蘭丸など、史上有名な例もある。文学芸能の世界について言えば、近代になって異端とされたものが今になって復活してきた、という見方ができるのかもしれない。