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パターンでもなく、テンプレートでもなく、ジャンルでもない

『映画はやくざなり』には「シナリオ骨法十箇条」と題する章がある。拙著『ストーリーとしての競争戦略』では、最終章で「戦略ストーリーの『骨法10個条』」という結論めいた話をしている。ここで使っている「骨法」という言葉は笠原からのパクリである。

一橋大学大学院
国際企業戦略研究科教授
楠木 建
1964年東京生まれ。1992年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専攻は競争戦略とイノベーション。日本語の著書に、『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、『知識とイノベーション』(共著、東洋経済新報社)、監訳書に『イノベーション5つの原則』(カーティス・R・カールソン他著、ダイヤモンド社) などがある。©Takaharu Shibuya

優れた戦略ストーリーは組織的な分業ではつくれない。戦略は「部署」でつくるのではなく、「人」がつくるものだ。つまり、商売全体を動かせる特定少数の「経営人材」だけが戦略づくりの担い手になり得る。

これまでもこの連載で再三再四話してきたことだが、ようするに「経営者(経営人材)」と「担当者」には決定的な違いがあるということだ。それは「スキル」と「センス」の違いといってもよい。担当者であれば、それぞれの担当分野、専門分野のスキルの有無がものを言う。ITのスキルがあれば、IT部門の担当者が務まる。財務部門のスタッフであれば、ファイナンスや会計のスキルが欠かせない。

しかし、話が戦略ストーリーを丸ごとつくるような「経営」となると、担当者の手に負えない。担当者が力を発揮するのは、担当分野や仕事の範囲が事前に定義されている場合に限られる。しかし、「担当範囲」が決められないのが経営だ。戦略をつくる経営者の仕事は、スキルだけではどうにもならない。センスとしか言いようのない何かが大切になる。

スキルは定義できる。だから「この人にはファイナンスのスキルがある」といえば、「ああ、こういうことができるんだな」と能力の中身が予想できる。しかも、スキルには物差しがある。「できる・できない」を何らかの尺度で把握できる(英語のスキルであれば「TOEIC何点」、法務の知識であれば「司法試験にパスしてます」というように)。

しかし、センスは千差万別だ。「経営センスがある」といっても、その中身は人によって大きく異なる。「女にモテる」というのと同じ話だ。モテるかモテないか、結果においてはわりとはっきりしている。しかし、それはスキルの有無の問題ではない。その人のセンスにかかっている。それでいて、モテる人はみな同じではない。人それぞれにモテている。センスを測る物差しもない。

戦略ストーリーをつくる能力というのもこれと似ている。「こうしたらできるようになりますよ」というスキルめいた答えはそもそも存在しない。僕は優れた戦略の基準なり条件を「ストーリー」という切り口で提示する。これが『ストーリーとしての競争戦略』のを書いた意図だ。つまり、戦略の「鑑賞者」の立場に立った仕事である。

その意味で、絵画や映画や小説や音楽の評論に似ている。自分で優れた絵を描いたり映画をつくれるわけではない。そうであっても、優れている絵画や映画とはこういうものですよ、という基準を示すことができる。「モテる」ということがどういうことか、本質部分をつかむことができれば、「こうやったらたちまちモテる」という方法論を示すことができないにしても、戦略を構想し動かそうという人々にとって何らかの役に立てるのではないか。これが僕の仕事のスタンスだ。

そうはいっても、経営者や経営者を目指している人を想定して書いた本である。「優れた戦略とはこういうものです。センスがあるとはどういうことか、これ読んでください。あとは各自でよしなにどうぞ。以上、ありがとうございました!」というスタンスで押し通してしまおうかとも思ったが、「で、どうすりゃいいんだよ!?」といったタイプの不満が殺到することが予想された。「こういうことを考えると、よりすぐれた戦略ストーリーが出来るんじゃないでしょうか」という戦略ストーリーづくりの勘所を、多少なりとも議論できればそれに越したことはない。

そこで最終章を加えることにした。ところが、使う言葉にはたと困った。自分なりに適当な言葉をいくつか考えてはみた。たとえば「パターン」。しかし、「パターン」とか「型」といってしまうと、いくつかの戦略の「テンプレート」があるかのようなことになってしまい、僕の主張とそりが合わない(たとえば、『プロフィット・ゾーン』という本がある。高収益をあげている企業の「勝ちパターン」を整理して紹介するもので、これはこれでとても良い本なのだが、「ストーリー」はこの本が提示しているような「パターン」ではない)。かといって、「To Doリスト」みたいなものとも違う。あえていえば「勘所」とか「基本姿勢」とか「構え」といった言葉かな、と悩んでいたところ、ずいぶん前に読んだ笠原和夫の本に「骨法」という言葉があったことを思いだした。

笠原も僕の意図とほとんど同じ意味で「骨法」という言葉を使っている。つまり、「骨法はパターンではない」。パターンは時代や作品によって変わっていくけれども、骨法は不変かつ普遍である。「天の岩戸の前で踊った天鈿女命〈あまのうずめのみこと〉の舞も『ターミネーター』のシュワルツェネッガーの迫力も、同じ骨法に沿っている」と笠原は言う。

さらに、骨法はラブストーリーとかサスペンスとかいったジャンルでもない。戦略ストーリーでいえば、勝ちパターンでも、ビジネスモデルでもないもの、それが「骨法」である。このような次第で、この言葉を僕の本の締めにありがたく使わせていただいた。