北野映画に激怒して書き上げた「骨法」

『映画はやくざなり』の話に戻る。笠原が骨法を書いた動機は「怒り」だった。その対象は北野武監督の『あの夏、いちばん静かな海。』である。評判がいいというので見てみたら、あまりにつまらなかった。いったいどういう脚本なんだ、ととりよせて見たら、88のシーンのタイトルのみが列挙されているだけ。それに簡単な説明を加えたメモの羅列だった。

それをみた笠原は「こんなのはシナリオじゃない!」と怒り心頭に発し、シナリオをつくるというのはこういうことだと前々から考えていたことを一気に言語化した。これが本書に収録されている「シナリオ骨法十箇条」となったという成り行きである。

「シナリオ骨法十箇条」はそのすべてが笠原のオリジナルではない。彼が昭和28年に東映に入って以来、いろいろな時と場所でいろいろな人から聞いたことを取捨選択して、「観客から金が取れる映画」を書くために必要な「基本中の基本」として練り上げたものだ。すでに話したように、シナリオを実際に「書く」のは、ストーリーづくりの最後にくる仕事だ。「シナリオ骨法十箇条」は、脚本をいざ書き始めてから使うものとして提示されている。「骨法」というだけあって、簡潔にまとまっているので、順番に紹介しよう。

●骨法その一。「コロガリ」

これからなにが始まるのかと客の胸をワクワクさせる展開の妙。映画で言えばサスペンス。不自然な展開やご都合主義の話の運びは「コロガリが悪い」といい、本筋だけがどんどん先に行ってしまう展開は「コロガリが過ぎる」という。観客との間で適当に駆け引きをしながら意表をつくカードを次々に魅せていくのが最良のコロガリ。

●骨法その二。「カセ」

主人公に背負わされた運命、宿命。「コロガリ」が主人公のアクティブな面を強調するのに対し、「カセ」はマイナスに作用するファクター。たとえば身分違いの恋は「カセ」であり、そこから生じる波乱が「アヤ」。ドラマの楽しさは「アヤ」にあるが、適切な「カセ」がないと「アヤ」が生まれない。技術的に一番難しいのが「カセ」。「カセ」「アヤ」の双方が効果的に効いたドラマは文句なしに面白い。

●骨法その三。「オタカラ」

主人公にとって、なにものにも代えがたく守るべき物、または獲得すべき物。主人公に対抗する者にとっては、そうさせまいとする、葛藤の具体的な核。サッカーのボールのように、絶えずとったり奪われたりすることで、多彩に錯綜するドラマの核心が完結明解に観客に理解される。とりわけアクション・ドラマの場合に「オタカラ」は必須。

●骨法その四。「カタキ」

敵役。「オタカラ」を奪おうとする者の側。メロドラマにおける「恋敵」。一目見てすぐ〈悪〉わかるような「カタキ」は時代劇以外では浮いてしまう。トラウマや劣等感など、内部から主人公の心を侵害するものも「カタキ」になりえる。

●骨法その五。「サンボウ」

「正念場」のこと。武智(明智)光秀が「敵は本能寺にあり!」といって盃を載せた三方(台)をひっくり返すという『絵本太功記』場面に由来する。進退ギリギリの瀬戸際に立った主人公が運命(宿命)に立ち向かう決意を示す地点。複雑多彩に膨れたドラマの中心部で「サンボウ」の芝居をつけることで、観客にドラマがどちらを目指しているのか気づかせることができる。

●骨法その六。「ヤブレ」

破、乱調。たとえば失意の主人公がボロボロになって酒に溺れたり暴れたりする芝居。役者にとってもやり甲斐のある見せ場となる。

●骨法その七「オリン」

ヴァイオリンのこと。母子ものの映画で、別れの場面にヴァイオリンを掻き鳴らして観客の涙を誘ったことから、感動的な場面を「オリンをコスる」と呼ぶようになった。「ヤブレ」のあと、次の「ヤマ」あたりが適当か。

●骨法その八。「ヤマ」

ヤマ場、見せ場。クライマックスのこと。本筋、脇筋を含めたあらゆるドラマ要素が結集し、人物たちは最大限に感情を爆発させ、衝突し、格闘し、一大修羅場を呈する。観客が抑制してきた興奮の発行を、ここぞとばかり一気に解き放つもので、作者自身がまず感動し、我を忘れるようなボルテージの高い場面にしなくてはならない。

●骨法その九。「オチ」

締めくくり、ラストシーン。予測と期待通りに終わる場合と、予測に反しながらも期待は満たして終息する場合の2種類がある。メロドラマは前者、ミステリーは後者が多い。予想ができて期待外れ、予想できなくて期待も満たされないオチは厳禁。思い切り楽しみつつ細心で丁寧な気遣いを持って書き上げる。

●骨法その十。「オダイモク」

お題目。テーマ。書き始める前に定めたテーマと書き進める過程で湧き上がってくるテーマの間に差異が生じたら、当初のテーマを捨てる。脚本を書き上げたところで、伝えようとしたテーマが十分に示されたかどうか、もう一度「オダイモク」を唱え直して検証することが肝要。

長々と引用したのは、笠原和夫の「骨法」が、パターンでもジャンルでもない、しかし「面白い映画」に必要な、確かに骨法としか言いようのないものになっているということをわかってもらいたいからだ。素人の僕でも、「ロシアより愛をこめて」「グッドフェローズ」「ゴッドファーザー」(パート2も。パート3となるとちょっとアレだが、それでもアンディ・ガルシアがジョー・マンテーニャの「ジョーイ・ザザ」に復讐するところはカッコ良すぎ!ストーリーの途中の「ヤマ」として最高だ)といったスキな映画を思い浮かべるだけで、どれも笠原の骨法十ヶ条にきっちりと即していることに驚く。

この骨法を基準にすると、『あの夏、いちばん静かな海。』は脚本が話になっていない、というのが笠原の不満であった。しかし、だからといって笠原は北野武を全否定しているわけではない。彼はこう言っている。骨法十ヶ条は自分のキャリアの中で練り上げたものだ。北野武もまた、まったく違う経緯とキャリアの中で、自分とは違う彼なりの「骨法」をもって映画を創っているのであろう。つまり、スキルと違って、「センスは千差万別」なのである。

この本の最後の最後で「だからといって、骨法などに捉われて、自分の『切実なもの』を衰弱させてはならない」と笠原はクギを刺している。一番大切なのは「体の内側から盛り上がってくる熱気と、そして心の奥底に沈んでいる黒い錘りである」。先にも書いたが、笠原が必ずしも自分の本意でないヤクザ映画の世界で一流といわれるようになったきっかけは、『日本侠客伝』の殴り込みの場面の流れ者の心情に「自分の何ものか」を乗せることができたからだった。