いまさら手洗いしたところでどうなる、とも思うが…

それには私なりの屁理屈もあった。

神経質に清潔を心掛けるよりも、雑菌とともに暮らすほうが免疫力がつくのではないか、という発想である。

かつて小学生たちがO(オー)157で集団食中毒となり騒がれた頃、名著、『免疫の意味論』の著者である多田富雄さんが、対談の席で、

「あれって、食前食後にきちんと手を洗うような習慣のある子に発症例が多かったんですよね」

と、首をかしげて呟いたことがあった。要するに幼い頃から雑多な菌にさらされて、多様な免疫力を身につけた子供のほうが強い場合もある、という感想である。

私はそのとき天啓を受けたような気がして、それ以来ずっと手洗いをさぼって生きてきたのだ。

それがコロナの流行とともに一変した。

六十年以上つづけてきた夜行性の生活から、朝型人間に急変したと同時に、なぜかしきりに手を洗うようになったのだ。

心中、手を洗うより、足を洗うほうが必要ではないのか、と考えることもある。いまさら手洗い、マスクを励行したところでどうなる、という自嘲めいた気持ちもある。

しかし、人間は常識にもとづいて生きるわけではない。人の行動は理屈では割り切れないものなのだ。

コロナが去っても日本人はマスクを外さない

コロナが去ったら人はマスクを外すのだろうか。

そうとも思えない。

数年にわたるマスク生活に慣れた人間は、マスクを外すとき、パンツを脱ぐような気分をあじわうのではあるまいか。

〈マスクは顔の下着です〉

と、戦時中なら大政翼賛会のスローガンになっただろう。個人の自由を頑固に主張する外国とちがって、国民が一致団結して生きる列島なのである。

コロナが去ったあと、私の早寝早起きの習慣は、はたして持続可能だろうか。八十代にして身についた手洗いの習慣は、その後も続くのだろうか。

マスクには、また別な効用もある。実際にはどうかわからないけれども、ある種の匿名性があるところが有難い。

五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)
五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)

「あんな老人が――」

などと不快そうな目で見られるのは、なにも書店でヌード写真集を眺めるときだけではない。この国では今でも〈年甲斐もなく――〉といった感性が幅をきかせているからである。

大きなマスクをして、顔半分を隠していると、一見、年齢不詳の感じがする。職業、年齢、階級などに関係なく、ある種の市民としての画一性がたもたれるような錯覚があるのだ。実際にはマスクをしていても、完全に無名性が保証されるわけではない。人は雰囲気で相手を識別できるものだからである。

しかし、それが錯覚であったとしても、マスクをすることで別な自分になったような感覚は、捨てがたい効用ではあるまいか。

さて、コロナが去ったあと、何が残るか興味はつきない。

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