夫の召使いの世話までできる財力がないと結婚が続かない

大貴族でなくとも、女が新婚家庭の経済を担うという傾向は平安末期まで続いたと見え、そのころ成立した『今昔物語集』にはこんな話が語られています。

越前の敦賀に住む女が、財産もないため、結婚しても夫が去っていくということを繰り返し、やがて両親も死に、ひとりぼっちになった。領地もなく、使用人は一人もいなくなり、衣食にも事欠くようになったため、昔、両親が家の後ろに作ってくれたお堂の観音に祈った。すると夢に老僧が現れ、そのお告げ通り良い男が訪れ、夜を過ごすものの、男の召使20人に食べさせる食事も馬の餌もない。途方に暮れていたところ、昔、彼女の両親が使っていた女の娘と称する者が突如現れ、食事やら何やらを用意してくれた。

お礼の品もない女は、自分は男の白袴を着け、助けてくれた女に、自分の着ていた紅の袴を与えた。翌日、いつも祈っていた観音を見ると、彼女が与えた紅の袴が肩に掛かっていたため、観音の助けと分かった。女は男にいきさつを話し、その後は男の領地である美濃で暮らし、多くの子を生んで、敦賀にもしじゅう出かけて観音にお仕えしたのでした(巻第十六第七)。

この話から分かるのは、新婚家庭では、男の供の者への食事の用意や馬の世話などは、妻方がしていたということです。そうしたことができないと、たとえ結婚できたとしても続かないわけで、平安中期の『うつほ物語』に書かれた“今の世の男”の有様を裏付ける説話といえます。

親からの財産だけでなく夫の死後はすべてを譲り受ける

平安時代から鎌倉初期にかけては、このように女子の相続権は強く、それゆえ経済的負担も、その責任も重いものでした。

武士の世界でもそれは同様で、『御成敗式目』(1232年制定)などの武家法によって、

「財産と地位を強力に保護されていた」(五味文彦「女性所領と家」女性史総合研究会編『日本女性史』第2巻所収)

財産は、男女を問わず相続できて、しかも母方・父方の双方から相続したので、たとえ父から義絶されていても、母からの相続権は維持されてもいました(西谷正浩『中世は核家族だったのか 民衆の暮らしと生き方』)。

しかも女子は、親から譲られた所領・財産のみならず、夫から譲られた所領・財産を持ち、夫の死後は、「家屋敷や所領などの財産をすべて管領し、子供たちを監督し、譲与を行なう、強い存在」(野村育世『北条政子 尼将軍の時代』)だったのです。