母親とのその後

上里さんは、高校在学中にヘルパー2級の資格を取得。介護施設や訪問介護の仕事で貯金し、18歳の間に寮を出て一人暮らしを始めた。

寮に入ってからずっと、上里さんは母親に定期的に連絡をしており、一人暮らしを始めてからも、連絡は欠かさなかった。信じられないことに、電話の向こうの母親は、多重人格かと思うほど優しかったのだ。

「僕が電話をかけると、『元気?』とか『ご飯ちゃんと食べてる?』とか、とても優しい声で僕の心配をしてくれていました。なぜ虐待するような親に電話をかけるのか? と聞かれれば、心の奥底では母のことを愛していたからです。どんなにつらく当たられても、死ぬほど殴られても、『愛情』だと思う自分がいました。いつか僕を愛してくれると信じていました。今でもそれは変わりません。僕は母が大好きです」

それでも面と向かって普通に話せるようになるまでは、かなりの時間を要した。2人とも落ち着いて話せるようになったのは、上里さんが17歳で寮に入ったときから約6年も経ってからだった。

「母が変わったわけではありません。今でも昔の話をすると、『私は正しい、お前が間違ってる』と言って泣くのです。母はたぶん死ぬまで毒親です」

上里さんが23歳になった頃、母親は58歳になっていた。まだ老いるには早い年齢だが、母親は違った。腹水がたまり、体力が落ち、歩くこともままならなくなってきていたのだ。

上里さんが25歳になった時、母親はたぬきの置物のように膨れ上がったお腹にしこりがあると言い出したものの、病院へ行かず放置。お腹の重さにひざが耐えられなくなって歩くのが億劫になっていき、とうとう1歩も外に出なくなった。

そして昨年2022年のこと。38度を超える高熱が続いているにもかかわらず、解熱鎮痛剤でごまかし続けていることが目に余った上里さんが受診を強く勧めると、ようやく病院へ。

大腸がん検査のための撮影画像
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※写真はイメージです

そこで告げられた病名は、大腸がんと甲状腺機能低下症(橋本病)だった。

年々お腹が膨れてきていたのは、甲状腺機能低下症のせいだったと判明。大腸がんはステージ2だった。