安田善治郎(ホッケー女子日本代表監督)

やすだ・ぜんじろう 1946年、岐阜県生まれ。65年開催の岐阜国体に合わせ、岐阜西工業高(現・岐阜総合学園高)に新設されたホッケー部の一期生。68年、メキシコ五輪にホッケー日本代表選手として出場。69年、明治大学を卒業し、岐阜女子商業高校ホッケー部監督就任。87〜90年、2001〜04年、2012年、女子日本代表監督。写真左は日本代表ミッドフィールダーの山本由佳理選手。

浅黒く日焼けした顔。メガネの奥の覇気をたたえた眼。65歳とは思えない迫力が小柄なからだ全体からあふれている。ロンドン五輪のホッケー女子日本代表「さくらジャパン」監督の安田善治郎は代表選手発表の席上、「今回はメダルを獲る」と言ってのけた。

そうはいっても、世界ランキング9位の日本が入った五輪1次リーグのA組には、オランダ(同1位)、英国(同4位)、中国(同5位)、韓国(同8位)、ベルギー(同16位)と強豪がずらりと並ぶ。「どこで勝負を?」と問うと、即答だった。「動いて、動いて、走り勝つ。サッカーのなでしこと一緒です。プレスをかけて、相手を包囲して、組織でボールをとって、点を獲っていく。ま。背景にあるのは体力です」

1968年メキシコ五輪代表でもあった安田の指導哲学は明快である。走りこむ。どんなことがあっても、選手たちを走らせるのである。69年には岐阜県立女子商業高校に赴任し、厳しい鍛練を課して高校総体優勝20回などの実績をつくった。女子日本代表のコーチを経て、監督に就任する。2度目の監督時代、2004年アテネ五輪に日本代表を導く。アテネ五輪後に監督を辞め、北京五輪惨敗を受け、ふたたび監督に復帰した。

いわば三度目の正直である。貧乏協会ゆえ、代表合宿の環境は厳しいけれど、「ハングリー精神が培われる」と気にしない。練習では、とことん走らせる。例えば、毎日2時間のフィジカル練習では300メートルを全力で5周走らせ、これを3本繰り返す。四股踏み、綱登り、ハードル走も。選手がへばって倒れても、見ながら知らない顔をする。

「だって同情を求めているだけでしょ。もちろんケガの時は別。でも疲れて倒れているのなら、あえて声をかける必要もありません」

でも、心で「がんばれ」「がんばれ」と念じているという。体格、パワーで劣る外国勢に勝つには体力で対抗するしかないのだ。

「“走れ、走れ、もっと走れ”です。選手と同じ気持ちで、同じように興奮して練習しています。“走れなかったから負けた”なんてコメントは聞きたくない。なぜ、走れなかったのか。練習で選手に迎合したからですよ。選手に迎合したら強い集団はできません。絶対に」

時代錯誤というなかれ。今も昔も日本の武器は「走力」「体力」なのである。

(築田純/アフロスポーツ=写真)