ワーカーではなく、プレーヤー
祇園の芸妓時代も秀は仕事を楽しんでいた。しかし、あまりに売れすぎて妬みをかったり、煩雑な約束事があったりして、煩わしさも感じていた。それが独立してみると、自分の魅力と才覚を頼みにすべて意のままに商売ができる。しかも店を開けるだけでお客さんが詰めかけてきてくれるというのだから、水を得まくりやがった魚である。おそめではすべてが秀を中心にまわり、秀もそれを心底楽しんだ。小さいながらも自分の店をもったことで、秀は「独立自尊の商売人」として商売の醍醐味を全身で知ったのである。
先だって東京大学の伊藤元重さんに聞いた話が面白かった。「仕事」に対応する英語の言葉は3つある。1つ目がLabor、文字通りの「労役」である。遠い昔であれば、人々の仕事はガレー船の底で櫓を漕いだり、ピラミッドの石を運ぶという類の労役であった。レイバーは基本的には強制されてやる奴隷の仕事である。いやでもやらないと生命や安全が脅かされる。2つ目は、Work。産業革命以降、大規模な企業組織が誕生した。人々は組織に属してそれぞれ決められた仕事をするようになった。これがワークとしての仕事で、タイピストや電話交換手という20世紀的な職業がその典型的なイメージである。そして3つ目が、Playである。たとえばイチローにとっての野球という仕事がこれに当たる。イチローは野球選手として仕事をしているわけだが、彼を「ワーカー」という人はいない。言うまでもなく「プレーヤー」である。
秀という人にとって、お染での商売は「プレー」以外の何ものでもなかった。彼女は徹底的に「プレーヤー」であった。店にいて接客していても、働いているという意識はまるでなく、ただ自分の好きなようにやるだけだった。秀が本能の赴くままに「プレー」すればするほど商売も順調に動いていった。人を雇っても経営者と従業員という関係ではなかった。家族や友達のように仲良く楽しく一緒に「プレー」するのである。おそめという店は、秀の類まれな資質と天性のセンスによって、バーの範疇を超えた大発展を遂げることになる。
その契機は、京都で開業してから7年を経た昭和30年であった。おそめが東京に進出したのである。京都のおそめの常連客に伊藤道郎という人物がいた。俳優の早川雪洲とならんで戦前のアメリカ社交界で舞踊家として名を馳せた人である。伊藤と秀とは30歳違い。父子のような間柄であった。伝統と因習の街、京都に窮屈さを感じていた当時の秀は、しばしばプライベートで東京を訪れ、常連客たちと遊び歩いていた。それをみた伊藤が「そんなに東京が好きなら、いっそ商売をしたらどうなんだ」と、事務所の一階を貸してくれたのだった。
秀はこの誘いにとびつき、週の半分は京都、半分は東京で商売をするという、当時としては大胆極まりない意思決定をする。東京の店も、秀らしい持ち味を最大限に生かして設計された。横文字の名前が主流の銀座で、「おそめ」という日本的な名前をそのまま使う。派手な銀座にあって、京都のお茶屋のような地味な構えの店にする。秀自身は相変わらず「遊ばしてもらっているよう」な天然の感覚で商売をしていただけだったが、京都の伝統である自然で控え目、ただしきめ細かく尽くす接客スタイルが期せずして他の銀座の店との明確な差別化をもたらした。東京出店を機に、秀は東京と京都の店を行き来するようになる。当時はめずらしかった飛行機を「まるでタクシーに乗るような感覚で」使い、「空飛ぶマダム」と言われた秀は、新聞や雑誌でも大きくとりあげられるスターになった。