毒殺説を書いた日記の存在

しかし、義時の死因については、病死以外の不穏なものがあるのです。そのことが記されているのが、歌人として有名な公家・藤原定家の日記『明月記』。

藤原定家の肖像画(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
藤原定家の肖像画(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その1227年6月11日条に「さっさと首を刎ねよ。そうでなければ、義時の妻(伊賀の方)が義時に盛った毒を寄越して早く殺せ」との一文が見えるのです。

これは、定家の言葉ではありません。鎌倉時代初期の僧侶・尊長そんちょうが発した言葉です。

尊長は、延暦寺の僧侶で、後鳥羽上皇の側近となった人物。上皇の倒幕計画にも参画。しかし、上皇の挙兵(承久の乱、1221年)は、上皇方の敗北に終わります。尊長は乱後、行方不明となります。それが、1227年6月に京都で発見されるのです。

尊長は捕縛され(『吾妻鏡』)、六波羅に連行されますが、6月8日に息絶えます。

捕縛された尊長は、前述の発言をします。周りにいた者が驚くなか、彼は「死のうとする時に、なぜ嘘を言おうか」と言い放ったといいます(ちなみに、『吾妻鏡』には『明月記』に書かれた尊長の言葉は書かれていません)。

「尊長=義時毒殺の黒幕説」を検証する

尊長こそが、義時毒殺の黒幕だったという説もあります。

義時の死の直後、伊賀氏の変という政変が勃発します(1224年6月から閏7月)。

この騒動は、御家人・伊賀光宗と、その妹で義時の後妻・伊賀の方が、実子・政村の執権就任と、一条実雅の将軍職就任を画策したとされるものです。

一条実雅と尊長は兄弟だったことから、そうしたことから、尊長=一条実雅=伊賀氏が結び付き、北条義時を毒殺したのではないかと言われているのです。

しかし、尊長と一条実雅は兄弟といっても異母兄弟。年齢にも30もの開きがあります。しかも、尊長は承久の乱において、上皇方に味方しましたが、実雅は鎌倉方だったのです。

つまり、尊長と実雅の関係は親密とは言えません。

尊長と伊賀氏も結束する仲だったとも思えません。伊賀光宗の兄・光季は、承久の乱の際、京都守護の任にありました。上皇から加勢するように勧誘がありましたが、光季はそれを拒否。これにより、光季は、上皇方に攻められて自害しているのです。

伊賀氏にとって、上皇方は仇だったと言えましょう。上皇方の中心人物・尊長と伊賀氏が結び付くとは思えません。伊賀氏にしても、義時を殺すことにメリットはなかったと思われます。

伊賀の方による毒殺はあり得ない

伊賀の方が我が子・北条政村を執権にしたいと考えた時、一番頼りになるのは、夫の義時だったはずです。

最大の頼みの綱・義時を毒殺することは、政村の執権就任をかえって遠ざけることにつながるといえるでしょう。余談ですが、大河では毒の入手先を義時の盟友である三浦義村としていましたが、史実ではありません。

なぜ、尊長は、伊賀氏が義時を毒殺したなどという「嘘」を言い放ったのでしょうか。尊長は、これまで見てきたように、6年もの間、潜伏生活を続けていました。そして、捕縛の際には自殺をはかっていた。捕縛されたら、死刑に処されることは一目瞭然。そうした状況にある尊長は、自暴自棄に陥り、北条氏や伊賀氏に対する恨みから、前掲の言葉を吐いたと思われます。