入社後に配属されたのは営業部。
「どういう薬をどれだけ作ってどこへ売るかをマーケティングし、生産計画を作る営業企画のような仕事でした。新入社員ですから言われたことをやっていただけですが、新しい知識が自分のものになっていくのは面白かった。興味を持てさえすれば楽しくやれるタイプなので、仕事がつらいとかまったく感じなかったです」
自分の力を試すため予報士試験に挑む
製薬業界の新人営業マンとしての忙しくも充実した日々。その一方でやはり気象とすっぱり縁を切ってはいなかったのが、彼らしいところだ。
山口氏が大学4年時の1994年に、気象予報士試験制度が創設されている。初年度は8月と12月、そして翌95年の3月に行われたが、彼は卒業直前の第3回試験を受験していた。
「中学・高校・大学と気象に打ち込んできたので、せっかく試験制度ができたのならどこまで通じるのか試してみたくなったんです。曲がりなりにも国家資格なんだから、合格すれば自分がそれなりの水準にあるんだと確認できますからね」
初めて受けた予報士試験で、学科試験は見事一発合格。実技試験は惜しくもクリアできなかったものの、学科試験合格者はその後1年間、残る実技試験に合格すれば予報士資格を得られる規定になっている。
山口氏は社会人1年目の95年8月に実技を再び受験したが、またも不合格。そして学科試験免除期間中で最後のチャンスとなる96年1月、3度目の実技試験を受けた。これでだめならもう受験は諦めるつもりで臨んだ、背水の陣だった。
3度目の受験で合格
実技試験には、年月日が伏せられた過去の本物の天気図が示され、「この天気図の時にはどんな注意事項があるか」「何を想定すべきか」などを記述する問題が必ず出る。配られた問題用紙の天気図を見た瞬間、思わず彼の頬が緩んだ。
「当時の私の頭の中には、過去数年分の天気図や気象データがざっくり入っていましたから、〈これ、1995年11月8日のやつだ〉とピンときたんです。稚内で44.9mという記録的な風速を観測した日でしたからね。あとは、覚えている当日の状況を書けばいいだけ。そこの設問は全部正解だったと思います」
ここまでくると、もはや一種の変態である。しかしその異能が、3度目の受験での合格を手繰り寄せたのだ。
晴れて気象予報士にはなれた。でもその資格を活かせるところへ転職しようとは、露ほども思わなかった。営業の仕事をがんばりながら、あともう少しだけ気象に時間を割いてみようかと考えただけだ。
そんなある日、図書館で気象関係の雑誌を読んでいると、ページをめくる手が止まった。
「ひまわりの画像受像機の広告が載ってたんです」