変わったのは、高校に進学してラグビー部に入ってからです。中学は運動部ではないので、最初はついていくのに必死でしたが、厳しい練習をするうちに体力がつきました。部活は勉学でも効果を発揮します。3年生の11月まで全国を目指した部活の仲間と「どうせ浪人」と覚悟していましたが、同期8人のうち私が京大、ほかにも早稲田、東京教育大、大阪市大に現役で合格しました。みんな集中力が身についたようです。

内田洋行社長 大久保昇氏
内田洋行社長 大久保昇氏(撮影=鈴木啓介)

学部は工学部で、大学寮に入りましたが、そこは全くの自由空間です。私はすぐ授業に出なくなり、朝から新聞を5紙読み漁り、部屋に誰かが毎日来て夜中まで話す生活が続きます。サークルのようなノリで夜中にバスに乗り、翌朝は成田闘争の三里塚だったこともあります。

そんなことから大学には6年通いました。工学部は研究室推薦で就職するのが常で、推薦を望まない私に残された選択肢は、理科の教師になるか、学部を問わない商社系しかありませんでした。

ただ就活を始めたのも遅く、唯一内田洋行が採用してくれました。高校の教員試験も合格しており少々迷いましたが、3月に入っても何も連絡がなく、内田洋行にお世話になることに決めました。ちなみにある高校から3月29日に採用の連絡がありました。もしあと2週間早ければ、今ごろどこかの学校で理科の先生をしていたかもしれません。

インターネットに教育的価値を感じた

入社は1979年で、配属はたまたま教育市場の営業職でした。1カ月のうち3週間は出張で岡山の販売店をまわる毎日。大学時代の友人からは「大久保はどうせすぐに辞める」と思われていましたが、仕事は黙々とやり続けました。

転機は4年目です。会社は教育市場でのコンピューターや学校家具など新規領域へのトライアルを始めていました。理科の実験器具は先輩のほうが当然詳しいのですが、コンピューターについては、たとえ多少でも大学で集中講座を受けていた私のほうが詳しく、広範囲なエリアを任されるようになったのです。

1987年、まだネットワークOSがない時代に、岐阜県の中学で、校内すべての教室のパソコンに教材を転送できるシステムを構築します。大学以外の全校ネットワークは日本初のことです。

その後、国から学校にコンピューター導入の大きな補助金が始まり、その頃には本社の経営企画に異動していた私ですが、増員要請から、元の部署である大阪で営業課長となります。しかし、転勤したころにはすでにピーク後でした。

ただ、次のチャンスが眼前に来ていました。インターネットです。まだその草分け時代、京大とある府立高校をインターネットで接続する案件を受注します。高校生が、ネット上の掲示板にミニマガの記事を作成し投稿する実習授業の体験を積むことでセミプロ並みの立派な文章が綴れるように変身していく姿に私は感動します。インターネットに教育的価値を感じました。