一生のすべてを手の内で見ることができる
こうした一連のカブトムシ飼育を通して、彼らからはいろいろと気づかされることがありました。
まず、昆虫の人生ならぬ“虫生”は短いスパンで生命のサイクルを完結させますから、その一生のすべてを手の内で見ることができます。シゲルたちの交尾、産卵に始まり、小さな幼虫になったかと思ったら、腐葉土を食べてどんどん大きくなり、蛹になり、成虫となってまたオスとメスとで繁殖を繰り返す。
カブトムシは、成虫になった途端に仲間と大喧嘩を始めます。餌を争い、メスを争って、土の上に出てくるなり「なんだ、コノヤロー」と大騒ぎになる。その様子を観察していると、次第に彼らには明らかな個体差があることが見えてきます。鈍感なもの、執念深くやり返すもの、要領の良さそうなもの……など、喧嘩のなかで生まれながらの性質が出るのです。やられたら絶対にその相手に仕返しをするのが彼らの習性のようでした。そんななかで、「おまえらがそんなことをしていると、餌が食べられないじゃないか」とばかりに、仲裁に入る個体も現れます。
彼らは何かを考えているわけではないので、こんなふうに行動の一つ一つに人間的解釈を重ねるのは間違っていますが、その生態は見ているだけで想像力を掻き立てるものがあり、人間の生き方や社会を顧みる良い機会にもなります。
またそれだけの数が生まれれば、なかには奇形の成虫も出てきます。羽が閉じないものや、角が曲がってしまったものなどです。奇形だからと言って私がその命を排除する筋合いはありませんが、昆虫たちは自分たちの弱い遺伝子を阻止し、優れた遺伝子だけを残そうとするものです。ハンディキャップのあるものとないものが平等、かつ対等に共存するのには、双方にそれなりのタフさが必要になってくるのも見ていて感じました。
知性があるわけではない昆虫の世界では、相手を慮る利他性などあるわけもない。本能による生命力の強さが問われる昆虫の間では命の淘汰が起こりますが、私はやはり不具合のある成虫たちが不憫になり、屈強な個体と戦わなくて済むように、分類して飼育することにしました。
死は悲劇でも不条理でもない
成虫になったカブトムシはやがて交尾をし、卵を産んだあとは徐々に衰弱し、やがて死を迎えます。その様子は死期に差し掛かった人間とほぼ同じです。大体動きが緩慢になっていくのですが、死の直前になって皆必死でもがくような動作を見せます。そのあとに徐々に体をこわばらせ少しずつ動かなくなる。ただし、彼らにとっての死は飄々としたもので、悲劇でもなければ不条理でもありません。
私たち人間は生きていく辛さから意識を背けるために、生き延びていくモチベーションを上げるために、知恵を駆使してデコレーションケーキのように自分たちの存在や人生に様々な意味を盛り込みます。しかし、知恵がなかったら、我々も生き物としては昆虫やその他の生物と同じなのです。生まれて、食べて、生きて、老いれば動けなくなって、死んでいく。
かつて『チベット死者の書』を読んで、チベット密教の死生観に潔さのようなものを感じましたが、カブトムシの一生に対してもそれに近い感慨がありました。死という結末を悲劇や不条理と捉えない生き物の生き方から、あらためて人間としての驕りを自覚させられた気持ちでした。