1917(大正6)年の第3回大会では愛知第一中が優勝した。現在の愛知県立旭丘高校である。あらゆるスポーツ競技のなかで全国レベルの大会で初めて優勝した一中は愛知一中であろう。

第7、8回大会では和歌山中(桐蔭高校)が連覇し、第12回では静岡中(静岡高校)が優勝している。

歴代の一中でもっとも強い学校は和歌山中である。

夏の全国大会最多連続出場は第1回大会(1915年)から第14回大会(1928年)まで14回を数える。いまでも破られていない記録だ。最近では2021年、福島の聖光学院高校が夏の全国大会県予選で負けて、連続回数が13で止まってしまっている。

ほかに甲子園に出場した一中には、札幌一中(札幌南高校)、盛岡中(盛岡第一高校)、仙台一中(仙台第一高校)、水戸一中(水戸第一高校)、山形中(山形東高校)、前橋中(前橋高校)、宇都宮中(宇都宮高校)、千葉中(千葉高校)、甲府中(甲府第一高校)、金沢一中(金沢泉丘高校)、京都一中(洛北高校)、北野中(北野高校)、岡山一中(岡山朝日高校)などがある。

戦後、新制高校になってからも一中の強さを引き継いだ学校がある。

1950(昭和25)年の夏大会で愛媛県立松山東高校が全国制覇を成し遂げた。

この時代、多くの新制高校は統廃合、共学化、学区変更、校名変更などでかなりバタバタしていた。松山東もややこみ入った歴史を持っている。

1948(昭和23)年の学制改革で松山中は松山第一高校となった。翌年、松山第一高校と松山商業高校(旧・松山商業学校)は統合し、松山東高校の普通科・商業科となった。この時点で松山商業高はいったん消滅する。両校が一緒になったことで当然、野球部も一つのチームとなり、松山東の部員は松山第一出身が三人、松山商業出身六十人以上という構成になった。松山第一にもそれなりに部員はいたが、統合で退部者が相次いだのだ。その理由について、退部した部員、菊地知之氏がこんな証言を残している。