休み時間に「みんなでドッジボール」は教育上の大問題
休み時間、子どもに「何して遊ぼう?」と問いかけると必ず挙がるものの一つが、ドッジボールである。そこで「さあ、みんなでやろう!」と声をかけ、みんなが「イエーイ!」となる。
今、あえて「みんな」という言葉を使った。この「みんな」という類の言葉には特に気を付ける必要がある。なぜかと言うと、それに同調しない人も必ず一定数以上存在するのだが、「みんな」という言葉を使うことによってそれらの人の存在を見えなくするからである。
そして彼らを「ノリが悪い」マイノリティとして苦しませる結果につながる。
先に結論から言う。休み時間にドッジボールをみんなでやろうと誘うのはやめよう。
「一人ぼっちになりがちな子どもをみんなの輪の中に入れよう」という親切心も、このドッジボールという遊びにおいては特に有難迷惑になりやすい。
なぜならば、ドッジボールでは、活躍するのが往々にして「一部の強者のみ」という事態になり、その他大勢は、「時々投げるチャンスが来ることがある」という程度になるからである。そして、強い子どもの投げるボールに当たると、ものすごく痛い。相手の手元が狂うと、顔面直撃という悲劇も起こり得る。そのため「当たりたくないからずっと外野」という超消極的参加の子どもも出る。この子どもたちは、本心としてはもう参加自体したくないのである。「先生はわざわざ気を遣って声をかけてくれているのかもしれないけれど、不親切でいいから本当に放っておいて欲しい」である。
この「逃げ回る人間を的にして当てる」ゲームは、狩猟遊びそのものである。必死に逃げ回る獲物を、狙いすまして撃ち殺し、悦に入る。古くから世界各国で行われているあたり、動物としての人間が本能的に好む遊びであると思われる。
言うなれば、ドッジボールにおいて、強者にとって弱者は必死に逃げ回る面白い「的」であり「獲物」である。弱肉強食教育推進運動である。実際、かつてこんな光景を目にしたことがある。全学年の同じ組の子どもが一緒になって遊ぶ「縦割り遊び」で、ドッジボールをレクリエーションとして高学年が企画した。そこで、心ない一部の高学年男子が容赦なく低学年の子どもたちにバシバシとボールをぶつけ、大喜びしていた。最低である。
これを学校教育で行うべきなのか。学校で育てるべきは、「思いやり」や「協働」といった社会の中で協力して生きる力である。利己的な「動物的本能」ではない。ドッジボールで育つ力は、はっきり言って、必要なものと真逆の方向である。
そういう中でこその譲り合いを学ばせる、という意図も、あるにはある。しかし現実は、強者が弱者に譲るだけで、他の学習のような学び合いにはならない。