後藤哲朗さん
写真提供=AERA dot.
後藤哲朗さん

「戦時中は軍需用の光学機器を作っていた会社の製品ですから、レンズの優秀性はもちろんのこと、とにかく丈夫一点張りのカメラで、壊れませんよ、と」

意外なことに、ニコンFはベテランの設計者が作ったものではなく、開発は若手に任されたという。

「軍需用光学機器などを担当したメインの設計者たちは当時主流だった『S系』と呼ばれるカメラを担当していたのです。一方、新しいカメラ(一眼レフ)は若い技術者が設計した。というか、放って置かれたに近かったと聞きました。指示されたことはただ一つ『S系をできるだけ流用しなさい』と。これはS系の部品を使うだけでなくて、効率化のために生産設備も含めて全部です。なので、まったく自由に設計できたと言うわけでもなかったのですが」

後藤さんはニコンFを取り出し、ダイヤル類やシャッターボタンの配置など、さまざまな部分にS系との共通点があることを説明する。

「亀倉さんがニコンにやってきたのはF発売の前年でした。それまでの試作品はまったく違う外観だったのです。それを亀倉さんがデザインし、たった数カ月で製品にまとめ上げた。開発担当者はとんでもなく忙しかったそうです」

ニコンFの発売は当初、大きな話題にはならなかったが、性能と信頼性の高さ、そして何よりもその丈夫さゆえに新聞社の写真部で多用され始め、世界中のプロとハイアマチュアに愛用されるようになった。

「作れば売れるという状況でした。アメリカでニコンFを首から下げていると、『車と交換してくれないか』っていう話が本当にあったみたいです。それくらい値打ちがあった」

ニコンFはロングラン製品となり、後継機F2が71年に発売された後、73年まで生産された。

キヤノン一眼レフとの戦い

後藤さんが入社後、初めて手掛けたカメラはニコンF3だった。大きな特徴は最高級機としては初めてボディー内に大規模な電子部品を組み込んだことである。