※本稿は、湯川れい子『時代のカナリア』(集英社)の一部を再編集したものです。
終戦を迎えた9歳のころ、自害の方法を教わった
2022年1月22日、私は86歳の誕生日を迎えました。日本の元号だと令和4年ですが、私は仕事上ずっと西暦にしてきましたので、はじめにそのことをお断りしておきましょう。
日本の元号で時系列を表現すると、どうしても世界史的な出来事との関連が捉えにくくなるように思うからです。
日本の出来事も、日本人の暮らしも、近代以降は世界の動きと密接な関係を持ってきました。ただ、「昭和」の場合は、その元号で続いた時間が相当な長さになりますし、個人史としても大きな出来事が昭和と結びついていますので、そのトピックスによっては、「昭和何年の」と言わざるを得ないときも出てくるのです。
たとえば、私の誕生日は1936年の1月22日ですが、やはり「昭和11年1月22日」と言ったほうが、時代の空気を反映していると言えるかもしれません。
第二次世界大戦、アジア太平洋戦争というあの悲惨な戦いが敗戦となった昭和20年(1945年)8月、私はまだ9歳でした。
「玉音放送」があった8月15日から一夜明けてのことだったと思います。疎開先の山形県米沢市の祖母の家で、軍人の妻であった母は私を畳の上に正座させると、私の膝を動かないように自分の腰紐でしっかりと結びつけ、その前に父の形見の短刀を置いて、アメリカ兵がやってきて辱めを受けるようなことがあったらこれで死になさいと、自害の仕方を教えてくれました。
「死んでいたかもしれない」私が86歳を迎えるなんて…
「辱めを受ける」と言われても、それが何かもわからない子どもでしたけれど、そのときの母の青ざめた顔と緊迫感は、今も忘れられません。
幸い、アメリカ兵は口笛を吹きながらニコニコやってきましたから、短刀は使わずにすんだものの、焼け野原の東京に戻ったあとの戦後の厳しい暮らしの中で、腺病質の私はよく病気をしては母に心配をかけました。
高校を無事に卒業して社会人になってからも、21歳のときの輸血がもとでかかったC型肝炎に70歳まで苦しめられたり、幾つかのシビアな闘病も経験しました。
ですから、「湯川さん、86歳のお誕生日の感想は?」などと聞かれても「こんなに長く生きるなんて夢にも思いませんでした」とつぶやくばかりです。
あのとき私は死んでいたかもしれないし、いや、あのときこそ死んでいたかも……と思えるようなこともありましたから、86歳という誕生日を迎えることになるとは、本当に想像もしていなかったのです。