「叱る」ことは「気づかせる」こと
私が叱ることを指導の基本にしていた理由のもうひとつは、叱ることで「気づかせる」ためだった。
人は、叱られることで考える。「どうして叱られたのか、何がいけなかったのか」と自問自答する。そうして「では、どうすればいいのか」と知恵を振り絞り、改善しようとする。その過程が技術的にも人間的にも、大きく成長させるのである。
人は、叱られてはじめて反省し、「もっとよくなろう」と心から願い、その方法を考える。まさしく、人は叱られてこそ育つのである。
叱るにあたり、私が肝に銘じていたことがひとつある。
「自分の保身のために叱らない」
そもそも何のために叱るのか。失敗を次につなげ、成長を促すためにほかならない。叱ることで、相手にどこがいけないのか、何が足りないのかを気づかせ、それならどうすればいいのかと考えさせるのが目的なのだ。
であれば、自分の身を守るため、言い換えれば、失敗の責任を誰かに転嫁するために叱ることはあってはならない。ましてや叱ることで自分自身を満足させたり、ストレスを発散したりすることなど言語道断である。
「叱る」と「怒る」は違う
「叱る」と「怒る」は違うのだ。
「怒り」とは、たんなるおのれの感情の発露にすぎない。しかも、たいがいの場合、「おまえがちゃんとやってくれないと、おれが困るから」という理由で怒っている。要は、責任を押しつけ、自分を守ることが目的になっているわけだ。
対して、「叱る」のは、先に述べたように相手のためである。そう、叱ることは愛情の裏返しなのだ。相手の成長を願うから叱るのである。私にいわせれば、「ほめる」と同義語なのだ。