「配球とは何か?」を学ばせたかった

しかし、新庄はこれを固辞。そこで「どこのポジションをやりたいんだ?」と問うと、「もちろん、ピッチャーです」と新庄は答える。一連のやり取りは、野村にとっては織り込み済みだったのだろう。

99年春季キャンプにおいて、投手と野手の二刀流に挑戦。この春の話題を独占することになった。

野村監督の狙いは明白だった。新庄のヤル気を促すと同時に、ピッチャーを経験することによって、「配球とは何か?」を学ばせたかったのである。

「天性の才能だけで野球をやっている」と見ていた新庄の新たな一面を引き出そうと考えたのだ。自分でマウンドに立つことによって、投手がストライクを取る難しさを体感すれば、自分が打席に立つときに、少しでも優位に立てるのではと考えたのだ。

まさに、「人を見て法を説け」を実践したのだった。

打者が放たれたボールを見極めている
写真=iStock.com/Matt_Brown
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野村監督の狙い通りの結果になり…

99年3月5日、熊本・藤崎台球場で行われた読売ジャイアンツとのオープン戦において、「ピッチャー・新庄」が実現した。紅白戦2試合において5失点だった。それでも、野村監督は新庄にチャンスを与えた。この回先頭の元木大介をセカンドフライ。続く二岡智宏をショートゴロ。さらに後藤孝志をセンターフライで三者凡退に切り抜けた。

この日はこの1イニングのみの登板となったが、次回に期待を持たせる内容に球場は沸いた。結局、左足の負傷によって、公式戦での「投手・新庄」は実現することなく「新庄版二刀流」は実現しなかった。

後に彼は、「やっぱりピッチャーは難しい」と野村氏に語ったという。「投手の難しさを学ばせたい」という当初の狙いは見事に達成されたのである。

「真面目な優等生は大成せず、不真面目な優等生は大成する」

01年からメジャーリーガーとなったため、野村と新庄の師弟関係は2年間で幕を閉じた。その後、04年に日本球界に復帰した新庄は北海道日本ハムファイターズの主力としてチームを日本一に導くものの、06年に34歳で突然の現役引退。野村をはじめとする周囲を驚かせた。

後に野村は「もう少し、人間としての考え方を学んだ方がいい」と言い、「お前は素質も抜群だし、スターの雰囲気を持っているけど、もう少し努力してもよかったな」と小言を述べている。

それでも、野村の言葉には新庄に対する愛情が垣間見えた。「しょうがないヤツだな」と言いながら、新庄の行く末を温かく見守っている雰囲気があった。

屈託のない新庄の人柄に魅了されたのかもしれない。あるいは、自身の哲学である「真面目な優等生は大成せず、不真面目な優等生は大成する」という思いがあったのだろうか。一見するとちゃらんぽらんに見える新庄だが、練習に対する真摯しんしな態度を野村は高く評価していた。