「不健康であること」が社会の悪となる
これを言い換えれば「不健康であること」あるいは「不健康になることはわかっているが、個人的な幸福が得られるからこそ、あえてそれを楽しむこと」は、たんなる自己責任の問題として社会的に放免されなくなり、人としてあるべき倫理的にただしい生活様式から逸脱した「社会に損害を与える悪」としてみなされ、ときに厳しく糾弾されるようになることを意味する。
健康が努力目標ではなく倫理的規範となった世界では、不健康者は「個人的に不利益を被っている自業自得の人」ではなくて、「社会のインフラや医療リソースを食いつぶし、社会の安定性にダメージを与える悪人」として扱われるようになる。
――と、私はパンデミックが起こった最初期の段階でそう予想的に述べた。
当初は私の主張にほとんどの人がまともに取り合うことはなかった。むしろ私のそうした予言を「全体主義者の妄想」とか「SF小説の読みすぎ」と嘲笑する向きも多かった。だが、結果はどうだろうか。この世界は着実に個人の健康増進を「規範化」あるいは「社会化」しようとしている。
「たばこ」の次は「酒」がターゲットになる
いまはとくに「たばこ」が批判のやり玉に挙がっているので、まだまだ対岸の火事として見ていられる人も多い。私自身も非喫煙者である。
しかしながら、「健康」が規範化される流れは不可逆的に加速しており、愛煙者たちの自由が倒れれば、次のターゲットは確実に「酒(飲酒文化)」になるだろう。
酒は少量なら体によい――と俗にいわれるが、実際には少量でもアルコールを摂取すれば健康にはリスクであり、身体に侵襲的な作用を持っていることが確認されている(CNN「量にかかわらず飲酒は脳に悪影響 英研究」)。ただし酒は古代から人類社会に寄り添ってきた悦楽の源であり、たばこと同じかそれ以上に「不健康ではあるが、しかし幸福や快楽を得られる」という自由の象徴として人類とともに歩んできた。
健康であることが「社会の公益と安定性の向上にとって重要なもの」とみなされる世界では、やはり飲酒はいまのように「個人的な嗜好」のままではいられなくなる。不道徳で反社会的な営みとしてのコンセンサスがより鮮明になっていき、人びとから次第に忌避されるようになっていく。
マスクをせずに街を歩く者が一瞬にして重罪人になったように、飲酒することが看過しがたい社会的逸脱になる日はやってくるだろう(感染拡大防止策としての「飲食店での酒類提供禁止」は、酒が悪になる社会を一時的にではあるが疑似的に現実化してみせた)。