2020年代に「温泉むすめ」がダメになった理由

個人的な営為が強制的に「社会化」される流れは、喫煙や飲食だけでなく、他のセクションでも急速に拡大している。人間社会の全方位において、個人的な営為があくまで「個人的なもの」のままで完結するような余白がどんどん失われている。

たとえば、昨今猛烈なペースで「炎上」を引き起こしているいわゆる「萌え絵」についても同じことだ。ほとんど萌えオタクとされる一部の愛好家の間でしか楽しまれていなかったような表現やアクティビティが突然「社会(公共性)」に接続され、その倫理的是非を問われるような流れが加速していった。

この流れの結果として大小さまざまな萌え系コンテンツが「炎上」のターゲットになってきた。先日、「温泉むすめはSDGs的にアウト」とする論評が出され、同コンテンツのファンを中心とした人びとから猛反発を受けていた(ITmediaビジネス〈「日本を代表するコンテンツ」温泉むすめが炎上! 美少女萌えとタバコ規制の微妙な関係〉)。数年前までは問題なく運営されていたコンテンツが「アウト」として再定義される――これはまさに個人的嗜好にすぎなかったものが、SDGsを倫理的触媒とした「社会化」を求められる流れの不可逆的な拡大を示唆している。

これから他の趣味や趣向、あらゆるアクティビティは、問答無用で次々と「個人」から引きはがされて「社会化」されていく。社会的に望ましいものにだけ、憲法上の自由が保障され、そうでないものには自由は与えられなくなる。これは「自由」の概念と本来ならば真っ向から対立する考え方だが、しかし2020年代の「アップデートされた自由」ではこのようになる。

人びとは「自由」をあっさりと手放した

新型コロナ・パンデミックによって「感染拡大を防止するために、市民社会が遵守するべき生活様式」を守らない個人に対する制裁や権利制限を強く求めた人びとは、これまでの時代にはないほど個人が「社会化」されることへの抵抗が低くなった。

渋谷スクランブル交差点
写真=iStock.com/kanzilyou
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ようするにウィズ・コロナの時代を経験した人びとは、自分たち市民社会の中に大切に温存されてきた「自由」を、驚くほどあっさりと「公権力」へと明け渡し、従属的な支配を甘んじるようになってしまったのだ。

社会が自分たちのプライベートを堂々と覗き見て、その営みの社会的・倫理的是非を論ずることに、かつてなら猛然と抵抗していたはずの「リベラル」なスタンスの人びとでさえ、社会の安定化や社会的望ましさの建前によって平然とその介入を受け入れたばかりか、むしろ他人にも積極的に社会的介入がなされるよう「違反者」を密告する人すら現れた。