斎藤のこの大学時代の大活躍と「ドライチ」でのプロ入りを萩原康弘氏はどう見ているのだろう。萩原氏は斎藤が早稲田にいたときの監督、應武篤良氏とも親交が深い。

「斎藤は大学で力をつけてからプロ入りと考えていたのかもしれない。本人としては大学で実績を上げて随分と成長したと感じていただろう。しかし斎藤の球が高校時代に比べ球威が上がったようには思えなかったし、大学で野球をしているのは高校時代にドラフトにのらなかった選手ばかり。すごい選手は田中をはじめ、皆プロ入りしている。従って大学で活躍したからといってプロで通用するとは限らない。大学といっても所詮アマチュアの世界。プロとの実力差はかなりある」

そうはいえ、斎藤は4球団から1位指名を受けている。実際に日本ハムが獲得したが、スカウト顧問だった山田正雄は次のように言っている。

「うちとしては斎藤の人気が欲しかった。札幌ドームに本拠地を移したばかりで、北海道のファンをより一層獲得する必要があった。そのためには斎藤のスター性は魅力だった」

実際、斎藤は開幕前のキャンプから大人気。ユニフォームやグッズなどが売れ、その総額は20億円とも言われた。さらに日本ハムという食品会社は料理を作る主婦層に人気が必要。斎藤には女性ファンも多く、斎藤によって野球を知り、日本ハムファンになった女性も多かったのだ。

プロ入り当初の華々しい活躍

2011年、プロ1年目の斎藤は初先発、打たれながらも勝ち星を得た。シーズン途中で脇腹の故障で戦列を離れたりしたが、最終的に6勝6敗。活躍したとは言いがたいがまずまずの成績だった。

では、2007年に楽天イーグルスに入団した田中将大のプロ1年目はというと、夏には150キロ以上の剛速球も投げ、プロの打者相手にしても三振をどんどん奪う。11勝7敗で新人王を獲得。毒舌の野村克也監督をして「うちのエース」と言わしめた。プロ2年目は9勝を挙げ、3年目は15勝を挙げる。年末の契約更改で年俸は1億8000万円となった。4年目は故障もあり11勝にとどまったが、田中の高額年俸は変わらず、斎藤は大学4年で華々しい成績を残すもアマチュア故に年俸は0である。

球場の片隅に置かれたグローブ
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それでも斎藤がそのままプロに行かなければ、2人は比べられることはなかっただろう。田中は高卒投手として「怪物」松坂大輔をしのぐ勢いでプロ入り4年間を過ごし、斎藤は早稲田大学のエースとして大学日本一にして4年間を過ごした。片やプロとして、片やアマとして、両者とも華々しい活躍を見せた、で終わっていたのだ。

ところが、斎藤は大学を卒業してプロに転向した。2011年、斎藤は田中と同じ土俵に立つことになった。日本ハムとの契約金は1億円だったが、年俸1500万円(推定)。当時の最高額だったが、実力だけでなく人気も加味された額だったろう。