オリンピック・パラリンピックをめぐっては、利権が絡む負の側面がたびたびクローズアップされてきた。オリンピックは何のためにあるのか。ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが書く――。

※本稿は、野地秩嘉『新TOKYOオリンピック・パラリンピック物語』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

東京五輪・パラリンピックでNTTが提供する通信の高速大容量規格「5G」技術を用いた高精細ワイドビジョンによるセーリング競技観戦体験のデモンストレーション=2021年7月1日、東京都千代田区
写真=時事通信フォト
東京五輪・パラリンピックでNTTが提供する通信の高速大容量規格「5G」技術を用いた高精細ワイドビジョンによるセーリング競技観戦体験のデモンストレーション=2021年7月1日、東京都千代田区

川淵氏を変えた61年前の「出会い」

東京オリンピック・パラリンピック選手村の村長を務める川淵三郎は、前回東京大会が始まる前の1960年、早稲田大学の4年生で、サッカーの日本代表として8月18日からドイツ・デュッセルドルフ近郊の「デュースブルク・スポーツ・シューレ」というスポーツ施設にいた。日付まで覚えているのは、その日の衝撃が後に彼をある行動に追い立てることになったからだ。

当時、日本代表チームは西ドイツサッカー協会のコーチだったデットマール・クラマーを指導者に迎えることを決めていた。日本代表は、デュッセルドルフ空港で初めてクラマーと会う。クラマーはチームの全員に挨拶すると、その場から選手たちをスポーツ・シューレに連れていったのである。

施設に着いた川淵の目に飛び込んできたのはどこまでも広がる青々とした芝生のグラウンドだった。

スポーツ・シューレは地域スポーツの施設でドイツ各地にある。広大な敷地に天然芝のピッチ、体育館や宿泊棟、ジム、医務室、映写室まで備えたものだった。合宿するのは代表クラスに限らない。地域の少年チーム、障がい者チームもまた利用することができた。

日本代表選手たちは芝生の上でボールを蹴るのだが、勝手が違った。なんといっても当時の日本のグラウンドは、でこぼこの土である。代表の試合だって土の上で行ったこともあったから、芝生の上でボールを蹴るなんて体験をしたサッカー選手はごくわずかしかいなかったのである。

「サッカーでなくともいい。子どもたちに芝生をあげたい」

「芝生なら転んでも痛くない。スライディングタックルだってぜんぜん怖くない」

選手たちは最初のうちボールを蹴らずにただ走ったり、寝転んだりして、芝生の気持ちよさを体全体で感じた。しかし、走っているうちに、自分たちがサッカーをやっていた環境がどれほどみじめなものだったかが次第にわかってきた。日本に戻ったらまた、でこぼこの土のピッチに戻ってプレーしなくてはならないことを考え合わせると、自然に涙が出てきた。

「いつかの日か、日本でも緑の芝生の上で普通にサッカーができるようにしたい」

川淵が人生を賭けてやりたかったことはJリーグではない。

「子どもたちに芝生のあるところで遊んでもらいたい。サッカーでなくともいい。子どもたちに芝生をあげたい」

本当の夢はそれだ。1960年のドイツで彼は生涯の夢を持った。

サッカーのプロリーグは彼でなくとも、誰かがやる。

しかし、子どもたちのために芝生を植えることを決め、実行しているのは川淵しかいない。彼は好きなゴルフをやって、クラブを振るたびにフェアウェイの芝生を削る。しかし、その何百倍、何千倍もの芝生を全国の学校の校庭に植えてきた。

花さかじいさんではなく、芝生を植えるじいさんが川淵三郎だ。令和の「芝植えじいさん」として、彼はレガシーを作ってきた。