日本の大学は教授の流動性を高めて力を付けるべきだ
大学の質がそれほど高いとは言えない日本の大学において文系分野を学ぶ意義も、当該分野の専門知識を学ぶというよりも、大学の単位を取ることで事務処理能力を高めることにあると言っても過言ではない。
司法試験も同じだ。司法試験で問われる知識など、法律実務家に必要な知識のほんのわずかな量だ。
だから司法試験で問われるのは知識というよりも、試験に必要な知識をいかに要領よく習得したか、またおよそ試験時間内で解くことなどできない問題量にいかに要領よく答えていくかの事務処理能力が問われているのだ。
そして事務処理能力があれば、のちに要領よく学んでいく力があるものと推定される。事務処理能力とは知識を得ることではなく、効率よく勉強する能力のことである。
ただし、難関の試験を突破した者のすべてが事務処理能力が高いということではない。それはあくまでも推定のことで、実際にはその能力が低い者もたくさんいる。
さらに、世の中でやっていくには事務処理能力だけでは不十分だ。アイデア、人間的コミュニケーション力、人間的魅力、世の中の甘いも酸いも知る経験、機転、度胸などなど、大学では学べないことが非常に重要になる。
これから大学で学ぼうとするにしても、このように大学で習得できることなど、世の中で必要なことのほんのわずかにすぎないことを十分に知っておくべきだ。ただし、だからといって完全に不要なものではないと思う。
日本の大学も、もっと教授の流動性を高めて力を付けて、世の中で通用する能力を学生に習得させてほしい。
いまのままの日本の大学で学んだ学生たちは、激しい競争にさらされるこれからの国際社会では通用しなくなると思う。