インターネットの世界であらゆる見解に触れたほうがよほどためになる
何かを研究したい人、特に理系分野であれば実験が必須だから、大学に進学して専門知識を習得するのは大いに意味があるだろう。
他方、文系の人、特に社会科学系の分野においては、先ほども言ったように、いまやインターネットの世界で知識めいた情報はあふれている。
いま、日本の大学、特に文系の領域では競争力がない。
いったん教授になれば定年までそのポストが保障されるような大学の世界で、教授たちの力が伸びるわけがない。すなわち日本の大学は流動性が低いので、大学自体の力も伸びないのだ。
教授自身の独善的・自己陶酔的な授業。サービスの受け手である学生から厳密な評価を受けない授業。こんなことで、授業自体の質が上がることなどない。教授側は、学生なんぞに自分の授業を評価されてたまるか、と思っているのだろうが、その結果、日本の大学の力が弱まった現実が見えていない。
ダメな教授はどんどん退出してもらう。生き残るために、教授自身にも必死に努力してもらい質を高めてもらう。そのためには「流動性」が必要だ。
いまの日本の大学は流動性が低い。
そんな大学の一教授の見解などあてにならない。インターネットの世界であらゆる見解に触れたほうがよほどためになる。
大学に行く意義は「受験勉強を通じて事務処理能力を高めること」
では大学、特に文系の意義は何か?
僕は専門知識を習得するというより、受験勉強を通じて事務処理能力を高めることにつながるのではないかと思っている。
すべてだとは言わないが、僕の個人的経験では、高学歴の人はそれなりに事務処理能力が高い。
会議の内容を要領よくまとめて、文書を作成する。プロジェクトを遂行するためには何が必要か考えて、計画どおりに実行する。連絡網を作り、コミュニケーションが円滑に進むようにする。予算管理を適切に行う。
こうした事務処理能力は、一見すると地味だが、組織運営には欠かせない貴重な能力だ。これからはクリエイティブな発想が求められるとはよく言われることで、もちろん僕もそのとおりだと思う。事務処理能力を高めたところで創造力が高まることはない。
しかし、創造力だけを極めればいい一部の天才でもないかぎり、普通の人間にとって仕事を円滑に進めるうえで事務処理能力が必要となることも現実だ。
つまり事務処理能力もそれはそれでひとつの才能であることに間違いないのだ。
いまの大学入試、その前の高校入試で得る知識は、社会人になって役に立つことはほとんどない。ではなぜ受験勉強をするのか。
それは事務処理能力を高めるからだ。入試は、知識の量を問うというよりも事務処理能力を測っている。
受験勉強に長けているというのは、要領が良いということだ。試験に出そうなところを大まかに予測して、集中的に覚える。
覚え方にもコツがある。大きな流れをつかんで細かなことに進む。共通性をつかんで差異に注視する、など。
いずれにせよ受験戦争に勝ってきた者は事務処理能力が高いことが多い。