自分自身を犠牲にしない
関係が深いと、思い通りにならないこともあります。
そうなると、「自分さえ我慢すれば……」と、距離を取ること自体をあきらめてしまうかもしれません。
相手から離れることに、後ろめたさや罪悪感を感じてしまうのでしょう。
でも、それは本当に望ましい解決策でしょうか。
私は学校で「誰とでも仲良くすること」が大切だと教わりました。
もちろん、そのこと自体は素晴らしいことです。でも、本当にそんなことができるのでしょうか。
私は自分の実体験から、疑問を感じてしまいます。
先生に「誰とでも仲良くしましょう」と言われ、その結果、クラスの中がどうなったかと言えば、みんなが自分の意見を押し殺して、まわりに同調するばかり。自分の意見は表に出さないで、過剰に周囲の空気を読むだけの環境がつくられてしまいました。
「ストレスを感じることなく、誰とでも仲良くする」
それは現実問題として不可能です。
「仲良くする」という表面的な目的を達成するために、自分を押し殺し、自分を犠牲にする人が生まれる環境は、歪みをもたらします。
感情を抑え込むと反動が起きる
抑圧された自我は、どこかで反動を生み出すでしょう。そして、その反動は望まぬ「悪」を誘発することになるかもしれません。
人は、抑圧された感情を自分の力で処理できるほど強くありません。うまく処理されなかった感情は、いずれ必ず牙をむきます。ならば、自分の感情を押し殺さなければならない状況や原因をあらかじめ避けることも必要だということです。
ただし、これはわがままに振る舞え、ということではありませんよ。他者を慈しむのと同じように、自分自身も慈しむのです。
もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。悪いことを実行する人が楽しみを得るということは、容易ではないからである。
『サンユッタ・ニカーヤ』第Ⅲ篇第1章第4節6
『サンユッタ・ニカーヤ』第Ⅲ篇第1章第4節6