日本人は熱心に「空気」を読む。『空気が支配する国』(新潮新書)を出した著述家の物江潤氏は「空気を無視しては生きにくい。しかし、何が何でも空気に従っては危ない。空気を意識することが多くなった今、その危険性を把握し第三の道を進むことが大切だ」という――。
空気とは曖昧な掟である
新型コロナ禍において、日本は諸外国と比べてきわめて緩い規制しか国民に強いることができませんでした。法的な縛りはほとんどなかったと言っても過言ではありません。一方でほとんどの国民は率先して自粛生活を送りました。
規制が緩いのに自粛を続けられる理由として、しばしば「空気」の存在が挙げられます。私自身、空気を読んだ末に経営している学習塾を休業したので、空気が原因だとする主張に共感できます。
しかし、空気の正体は分かりにくい。誰しもが感じる存在でありながら、それを明快に説明できる人は少ないのではないでしょうか。
新著『空気が支配する国』で、私は空気のことを「曖昧な掟」と定義しました。法律や戒律のような「明確な掟」が見当たらないとき、私たちは何となく読んだ空気を掟とするからです。明確な掟が不足すると、たちまち曖昧な掟である空気が生じるとも言えます。
流行語大賞にノミネートされた「自粛警察」とされる人たちは、率先してこの曖昧な掟を世に広め、他人に守らせることに情熱を傾ける人たちと言えるでしょう。あるいは「曖昧な掟」を「明確な掟」だと強く主張する人たちです。
こうした空気の支配について、私たちはコロナ以前からよく知っています。会社などで物事が決められる際に、精緻な論理をもとにした議論の末、ということはあまりありません。何となく「その場の空気」で決まることのほうが多いのではないでしょうか。