「子供といる時間はほとんどカメラ付き」は危ない

人間の社会関係は通常、会話から始まる。自身の発信に対する相手の言葉や視線、表情といったフィードバックを受け止め、さらに言葉や表情を返していくというやり取りの中で、子供は感情の機微や対人関係を学んでいくのに、スマホやビデオカメラの前で親の要求に従って媚びた演技を繰り返す癖が染み付いてしまうと、豊かな社会的情動性は育たない。

「コミュニケーションとは、会話を通じてお互いをサポートしながら知的な情報交換を行う作業。しかし、〈こういう仕草や言い方をすれば他人は喜ぶよね〉と子供がタカをくくってしまうと、中身の薄い営業トーク的な言動ばかりを覚え、その子の人間観察力を弱めてしまいかねません。日常生活で親子の会話が十分に確保できているのなら問題はありませんが、毎日のように子供の様子をYouTubeにアップしているような親は、子供といる時間はほとんどカメラ付きという状態になっていないでしょうか。もしそうだとすれば、その子は一番愛着のある人、つまり親との触れ合いの中でコミュニケーションの原則を学ぶという、大切な機会を取り上げられているとも言えます」

そして本人の意思が反映されていない子供の言動は、結局端々に空虚さが漂い、視聴者にそっぽを向かれてしまう。

「私が監修している幼児番組『しまじろうのわお!』にも、プロの子役や一般の子供が出演することがあります。そんな時、番組制作スタッフが大事にしているのは、視聴者に媚びたような演技は絶対させないということ。おもちゃ相手でも昆虫相手でも、子供代表として本気で遊んでもらって、その子役が本当に熱中してきたところを撮ると、テレビの前の視聴者――子供でも親でもです――に素直に共感していただける映像になるんです」

「○○ちゃんが泣いちゃってまーす」

さらに子供の感情は、必ずしも自発的なものばかりではないことを知っておく必要がある。

例えば、子供が転んだ直後は痛みをぐっと我慢していたのに、心配して近寄ってきた母親の顔を見たとたん、火がついたように泣き出すということがよくある。

「あれは、〈自分のことをすごく大事に思ってくれているお母さんだったら、私が痛い、いやだなと思ったことをきっとわかって共感してくれるだろう〉と、感情が爆発してしまうわけです。つまり子供の感情はその子の内面から発するばかりではなく、親との間に存在するようなところもあります。そして自分がけがをした際、お母さんが『わー、それは痛かったでしょう、大丈夫?』と悲しそうな顔をしているのを見て、子供は〈そうか、誰かがけがをした時は、こういう心配そうな表情をするものなんだな〉と学んで、よその子がけがをした時はお母さんがしたような表情をして『大丈夫?』と言ってあげられるようになるのです」

対話の中で出来事を共有することで社会情動性が発達していくのに、子供が転んで泣いていても親が「○○ちゃんが泣いちゃってまーす」などと傍観者的に言いながら撮影を続けていたら、それは子供を100%受け止めているのではなく、ただ見世物にしているだけだ。

「楽しさや切なさや悲しさや恥ずかしさといった微妙に変わる感情は、親がそれを言葉にして表情で示してくれる中で、子供が初めて理解できるもの。なのに親が感情を受け止めてくれるどころか、撮影ばかりにのめり込んでいたら、その子は自分の感情をどんな表情で、どう言葉にしたらいいのかと葛藤することもできません」