創業時は運転すらしたことない人もいた

トヨタの創業者は豊田喜一郎。織機王、豊田佐吉の長男だ。織機の事業が儲かっているうちに自動車の研究を始め、自動車先進国の車のノックダウンでなく、自動車製造の事業を興した。もっといえば、この人はなかなかカラフルな才能がある人で、まだ東大の学生だった頃、つまり戦前に戦闘機「飛燕」の液冷式エンジンの設計をしたこともある。

さて、豊田喜一郎が初めての国産量産自動車AA型(※)を世に出したのは戦前の1936年9月のことだった。

自動車を作るなんて誰でもできることと、今では思う。しかし、豊田喜一郎がAA型を作った頃、本人を始め、自動車工学を学んだ人間などいなかった。それどころか、製造にかかわった人間のうち、自家用車を持っていたのは豊田喜一郎くらいだったし、運転したことがある人もごくわずかだった。運転したことがなければハンドルやシフトレバーの位置だって、熟慮して設計しなければならない。彼らの仕事は苦難と苦闘の連続だったと思う。

むろん戦前にも自動車はあった。AA型が出る前年、日本国内で走っていた四輪車の数は12万5915台。半分近くはトラックでしかもアメリカ製である。一般庶民にとって自家用車は「夢の乗り物」だったろう。

※アメリカ・クライスラー車の影響を受けた3400ccの中型車。1404台、製造された

「一日に10回、手を洗え」の意味

そんな状態だったから、日本人で自動車の専門家がいたわけではない。それでも寄ってたかって自動車を作ってしまったということになる。

後のことになるが、初代クラウン(1955年発売)の開発を統括した主査、中村健也はプレス機械の専門技術者だった。また、他社の話になるが軽自動車のベストセラーカー、スバル360(1958年)を開発した百瀬晋六は戦闘機の技術者だった。百瀬は文献研究と外国車を分解調査して設計したというから、人間はやる気になれば何でもできるということなのだろうか。

現在の自動車開発者は誰もが自家用車を持っているし、運転だってできる。現物も知識も資料にも事欠かない。

それなのに、モーターショーやオートサロンに出てくる「夢の車」「未来の車」はアナーキーなデザインでもないし、突拍子もないコンセプトでもない。データや資料が少ない方が人間の想像力は飛躍するのではないか。