「正体不明さ」は作者個人への興味を掻き立てる

第一に、「顔のない記号」ということ、つまり匿名性の魅力です。もともとバンクシーが世間の興味をきつけたのは、どこの誰だかわからない、一人か多人数かもわからないその正体不明さでした。

匿名性という属性は、アートの未来を先取りしています。19世紀のアートの世界の主流イデオロギーは、作品が持つ性質よりも、創作者の人格や、生き方、創作のプロセスなど、生身の人間的な側面を重要視する「ロマン主義」でした。そして、20世紀のアートと文学の世界では、そんなロマン主義への批判、つまり「作者の意図や人格や伝記的背景を作品の解釈に持ち込んではならない。作品の意味と作者の現実を関連付けるのは間違いだ」という考えが支持を得ました。

しかし、そういった「反ロマン主義」に対する反動で、1960年代からは“作品の純粋な特徴にこだわらないだけでなく、作者の身元や個性にもこだわらない”というアンチ反ロマン主義の流れが盛んになってきたのです。

現代アートは、このロマン主義←→反ロマン主義(モダニズム)←→アンチ反ロマン主義(ポストモダニズム)というさまざまな立場がぐちゃぐちゃに交じり合った複雑な状況をみせているわけです。

バンクシーが意識的に打ち出している「匿名性」は、作者の身元を隠す装置ですから、とりあえず「反ロマン主義的」な戦略のように見えますね。しかし、匿名であるがゆえに、「いったいどんな人なんだ」「こういう社会風刺はどんな意識から生まれてきたのだろう」というふうに、隠された作者個人への興味をかき立てていることも事実でしょう。

SNS上の写真やイラスト、エッセイも「アート」になる日が来るか

しかも、そこで興味の対象となる作者性は、虚構的なものでかまいません。バンクシーが一人の個人だという保証はないし、無数のなりすましを許容するわけですから。それが匿名性の宿命です。古いロマン主義的な興味を満たしたい一般人の思い入れを刺激しながら、知識人が憧れるアンチ反ロマン主義的な囚われのなさをも、バンクシーの立ち位置はあおり立てているように思われます。

匿名といえば、いま、世界中で発信されているアート的な制作物のほとんどが、ウェブサイトの中の写真やイラスト、エッセイなどでしょう。SNSや動画サイト、ブログなどに投稿される視聴覚作品、言語作品は、匿名性が高く、「盗用アート」「偶然性アート」もしばしば見られますね。

そういったウェブ上の垂れ流し的な制作物がアートとして認知される度合いは、まだ極めて低いと言わざるをえませんが、いずれは正式な文化財として市民権を得る可能性があります。バンクシーはウェブ上の匿名アーチストたちの先駆となるでしょう。