N95マスクは入職時などに、フィットテストといって、個人個人の顔の形にあったマスクを選択できるテストを行っていて、空気の漏れがないものを選択します。アメリカの方は立派な髭を蓄えていらっしゃる方が多いのですが、こういう方は、例の宇宙服のようなPAPRを装着するように指導されます。

ただ、日本の法医学では、フィットテストの必修化やPAPRはまだ実施されていないと思います。実はこれが一番重要かもしれませんが、OMIにはたくさんの解剖技官や清掃に従事するスタッフが働いていて、感染対策が行いやすいのも日本との大きな違いです。

——今後、わが国はオリンピックの予定もありますが、万一、バイオテロなどが起こったらどうするのでしょう。また、もし今、地震や津波などの災害に見舞われたら、大変なことになってしまいます。国は、有事の際の備えをしているのでしょうか。

【槇野】少なくとも法医学教室に向けて、バイオテロに備えるための予算が配備されたという話は聞きません。今回の新型コロナウイルス騒動で、法医学教室が解剖を受けなかったことがニュースになっていました。

しかし、この問題の本質は、「法医学教室の準備が悪い」という点にあるのではありません。法医解剖における感染症対策が、法医学教室の自助努力に任せられていることこそが問題なのです。

感染リスクがある遺体の解剖は断らざるを得ない実情

一般には公開されてないのですが、今回、国立感染症研究所が、新型コロナウイルスにおける解剖の指針を出しました。そこには、解剖台や換気回数の具体的な記載がありました。アメリカのCDCのガイドラインなどにも同様の指針があります。

ところが、日本の多くの法医学教室がこの指針を満たしておらず、その結果、感染の危険がある遺体の解剖は断らざるをえないのだと思います。

槇野氏が利用していた東大の解剖室。ダウンフローはなく、解剖切開でエアロゾルが発生すると執刀者の顔に飛んきた。
写真提供=槇野陽介氏
2019年8月末まで使われた東大の旧解剖室。ダウンフロー型の解剖台ではなく、解剖切開でエアロゾルが発生すると執刀者の顔に飛ぶ。東大では、耐震改修に合わせ、2020年4月からようやく国立感染症研究所の基準を満たした新しい解剖室になった。

——国立感染症研究所の指針に沿うような法医解剖施設に作り変えるには、どのくらいの予算が必要なのでしょうか。

【槇野】そうですね、指針に沿うような施設に作り変えるには、各教室に最低でも数千万円規模のお金が必要です。これを全国一律に自助努力で賄わせるのは、現状ではまず不可能です。

新型コロナウイルスに関連した司法解剖を断られたことを法医学側の責任というのであれば、また、バイオテロの対策をしっかりとしたいのであれば、国には、こうした予算が組めるような政策を立ててもらう必要があります。

4月から施行された「死因究明等推進基本法」に基づく、死因究明推進計画の中でも優先的に議論していただきたいと思います。