国内販売の6割を占める“軽”事業を捨てる

2007年当時、富士重工の国内販売台数は22万5818台。うち軽自動車は62パーセントの14万990台である。国内販売の3分の2を占める軽自動車の開発・生産から撤退するという、空前の決断だった。

しかも、その年は日本の軽自動車のヒーロー、スバル360の誕生から50周年の記念すべき年だったのである。

当時、森はこう語っている。

「国内の販売は最盛期の35万台から22万台まで減少している。一方で収益の大半は海外なんです。私たちはグローバルで生き残る道を模索しなければならない。国内のことだけを考えて、軽自動車から普通車まですべてを開発・生産するのはもう難しい。そこで決めたのです」

実際、軽自動車は10万台を売る程度ではまったく商売にならなかった。価格の安い軽自動車はダイハツ、スズキのように50万台は売らないと儲けは出てこないのである。

スバルの規模で開発、生産、販売すると赤字になるのだが、スバル360を作った会社というイメージに縛られて、なかなか撤退の決断ができなかった。

アメリカ向けの開発に振り向けることができた

だが、このおかげで、赤字はなくなり、また、軽自動車の開発をしていた人材をアメリカ向けの車を開発する部門に振り向けることができた。開発技術者が他社に比べて少ない同社にとっては、軽自動車からの撤退は開発陣の強化にもつながったのである。

ただ、単に撤退しただけでは国内の販売網で売るタマががくんと減ってしまう。トヨタ、ダイハツとのアライアンスを生かして、OEM供給してもらうことで、販売店を納得させることができた。

ダイハツ工業からのOEM供給で販売している「シフォン」
提供=SUBARU
ダイハツ工業からのOEM供給で販売している「シフォン」

「どうして、もっと早く決断しなかったのか」「こんなことは赤字が続くだろうと見通しが出た時点で決めることだった」とも言われるべき正しい判断だった。

これまで決断してこなかった方が不思議だったのである。けれどもそれは森、吉永といった危機感を持った生え抜き幹部が登用されて、初めてできたことだった。

森は撤退を発表する前、社内やOBから大きな反対があると予想したのだが、実際にそれほど激烈な反応はなかった。社内の人間も軽自動車が大赤字だとわかっていたからだろう。

「3ナンバーの方が5よりも税金が高い」という思い込み

そして、軽自動車をやめた開発の人間たちはアメリカ向けの車の設計に携わり、早速、ひとつのアイデアを出し、それは採用された。

「車体の幅を広げる」

それがアメリカマーケット向けのひとつの解答だった。業界で販売のコンサルタントをしている人間はこう言った。

「日本の車って、ようかんみたいに細長いんです。世界の車に比べると、ヘンな形なんですね。それは車幅が1メートル70センチを超えると3ナンバーになってしまうからです。売る方としては3ナンバーよりも、5ナンバーの方が売りやすいから、そんなヘンな形の車が増えてしまったんです」